スティーブン・ポール・ジョブズ(Steven Paul Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家。スティーブ・ウォズニアック、ロン・ウェイン[1]、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界初の成功を収めたアップル社の共同設立者の一人。また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続けた。
ギブンネームをスティーブン、ファミリーネームをジョブスとカタカナ表記することもあるが、アップルジャパン公式サイトでは「スティーブ・ジョブズ」と表記している。
1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅のガレージからスタートしたアップル社はシリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。
1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時存在したあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いのために社内を混乱させたとされ、1985年にアップルから追放された。
アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、ワークステーション「NeXTcube」とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。
1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却することで復帰、1997年には、暫定CEOとなる。その後、ライバルとされていたマイクロソフトとの資本連携に踏み切り、社内のリストラを進めてアップル社の業績を回復させた。
2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。
暫定CEOに就任して以来、基本給与として、年1ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[2](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は居住地の州法により、社会保障を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安いCEO」とも呼ばれた。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。
2011年10月5日、アップルはジョブズが死去したと発表した[3]。別の報道では死因は膵癌に伴う呼吸停止[4]と報道している[5]。56歳没。
2012年2月11日、第54回グラミー賞で、特別功労賞の一つ「トラスティーズ賞」が授与された[6]。
[編集] 幼少期
1955年、シリア人の政治学者、アブドゥルファター・ジャンダリとアメリカ人の大学院生ジョアン・シンプソンの間に生まれる。ジョアンの父が、シリア人であるアブドゥルファターとの結婚を認めなかったため[7]、誕生以前から、養子に出すことに決められていた。結果、スティーブはポール・ジョブズ、クラリス・ジョブズ夫婦に引き取られることになった。ジョアン・シンプソンは、ジョブズ夫婦が大学卒でないことを知り、養子縁組を躊躇したが、ジョブズ夫婦が彼を大学に進学させることを約束して、縁組が成立した。ジョブズが、実の母と再会するのは、彼が30歳を過ぎた頃である。
[編集] 青年期
1968年、ジョブズが13歳のとき、あこがれのヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。ビル・ヒューレットはパロアルトに住んでいることを知っており、電話帳で調べてみたところ、パロアルトで、ビル・ヒューレットの名前で掲載されているものはひとつしかなかった。ジョブズが周波数カウンタの部品をくださいと言うと、部品をくれたばかりか、夏休みにアルバイトをしないかと持ちかけられた。もらった仕事は、ヒューレット・パッカードの支社で、周波数カウンタをつくっているところだったという[8]
1971年、高校生になったジョブズは、ヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていた時に、スティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。容姿も性格も正反対の2人であったが、すぐに意気投合した。ある時、ウォズの母親からもらった「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていたブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけるというフリーキング(不正行為)の記事を読んだ2人は、スタンフォード大学の図書館に入り込み、AT&T(ベル社)の技術資料を見つけ出して、自分たちでオリジナルのブルー・ボックスを作り上げた。2人は、この装置で長距離電話をかけまくったという。ウォズは、この装置を作ったことで満足したが、ジョブズは、当時ウォズの通っていたカリフォルニア大学� �ークレー校の寮で、1台100ドルから150ドルで売りさばいていた。装置自体は1台40ドル程度で、大いにもうかったようだが、そのうち銃で脅されるような状態になり、身の危険すら感じたジョブズは、一切の販売を止めてしまう。
1972年、オレゴン州のリード大学へ進学。大学時代の彼はヒッピー思想・禅・サイケデリックドラッグに心酔し、裸足で校内を歩き、一時は風呂に入らない時期もあったという。またかなりの音楽ファンであり、ビートルズやグレイトフル・デッドなどを聴きまくっていた。ジョブズは大学に半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり、「両親が一生をかけて貯めた学費を意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた」ために中退してしまう。しかし中退した後もリード大学のキャンパスを放浪し、コーラの空き瓶拾いや心理学科での電子装置修理で日銭を稼ぎながら、哲学やカリグラフィー(西洋書道)など興味のあるクラスだけを聴講するもぐりの学生として過ごし、合計18ヶ月をリード大学に費やした。
[編集] アタリとのかかわり
導師を求めてインドまで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。1974年2月にジョブズは実家に戻り、その日のうちにアタリを訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップであるノーラン・ブッシュネルを引っ張り出す。ブッシュネルに気に入られたジョブズは、40人目の社員として採用され、時給5ドルのテクニシャン(下級エンジニア)として働くこととなった。入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、ビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにも拘らず、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ同僚の大半から「失礼な奴」と認識される。
ジョブズはアルコーンに「インドまでの旅費を援助してくれ」と頼み、ミュンヘンでのゲームの修理を旅費込みで申しつけられ、ドイツ経由でインドへ渡ることで旅費を安く済ませる目処を立たせる。仕事を済ませた後は一度退社し、友人のダン・コトケと共にインドに辿り着くも、すぐに赤痢にかかって苦しむことになった上、放浪の末に想像と余りにもかけ離れたインドの実態に失望[9]。結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、鈴木俊隆を導師としてサンフランシスコで禅を学び、瞑想やスタンフォード大学の授業聴講などをして自分探しを行った後、1975年初頭にアタリに復職する。
復職後の夏、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロックくずし#ブレイクアウト)の回路の部品減らしを命じられ「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ(ブッシュネルはこれを予測していた)、ゲームをしたり勝手に基板を改造していた彼に対してその片手間に作業を頼んだ。ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20~30個も減らしたが、余りに窮屈で難解な設計は、ウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられる。その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局は、またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニ� ��ックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。
デルマール、カリフォルニア州の観光名所
ジョブズは、報酬の山分けをウォズニアックに提案、アタリから受け取った「700ドル」のうち350ドルを小切手でウォズに渡したが、実際には5000ドルを受け取っており、差額は、オレゴン州の共同農場につぎ込んでいた。1984年頃、ウォズニアックはアルコーンに偶然出会った際、ジョブズによる報酬搾取の事実を知り、ジョブズとウォズニアックとの間にはしばらく確執があった。ともあれウォズニアックは、後述のApple IやIIを設計する際「ブレイクアウト」の部品減らしが、大変役に立つ勉強だったと語っている。なお、アルコーンはアタリを退職後、アップルコンピュータにも勤めていた時期がある。
[編集] Apple I
詳細は「Apple I」を参照
1975年、Altair 8800というコンピュータ・キットが発売され、人気を博していた。ウォズは、モステクノロジー社の6502ならより安く、しかも、簡易な回路のコンピュータを作ることができると考え、10月から半年間かけて設計。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行い称賛された。ウォズは、ヒューレット・パッカードで働いていたことから、「自身の開発した物は上司に見せなければいけない」としてジョブズの反対を押し切り、ヒューレット・パッカードに商品化を持ち掛ける。しかし、当時のヒューレット・パッカードは、個人でコンピュータを所有する意味が理解できなかったために、ウォズを軽くあしらってしまう。アタリのアルコーンもほぼ同様の反応で、2人は資金を集め自分達でこのコンピュータを売り出すことを決意する。� �ョブズはワーゲンバスを、ウォズはHPのプログラミング電卓を250ドルで売り払い資金を集めた。そして、製造したコンピュータをアップル(正確にはApple Computer I)と名付け、1976年6月Apple Iは、666.66ドルの価格で販売が始められた。
ちなみに、ウォズが「アメリカン・ドリーム」(マイケル・モリッツ著)で語っているところによれば、社名選考でジョブズが「アップルというのはどうか?」と、突然言い出したとされる。それに対してウォズは「2人(ウォズ、ジョブズ)とも音楽好きであったのでビートルズのレコード会社として有名なアップルから思いついたのかもしれない」とのコメントを残している。
[編集] アップルコンピュータ設立
ジョブズは、約8,000ドルの利益を手に、多忙で商談ができなかったブッシュネルの紹介で出会ったマイク・マークラに、起業の話を持ちかける。マークラは、インテルの中級社員だったが、目先の現金が欲しい同僚や友人からストックオプションの株をコツコツと買い集め、インテルの株式公開時には、巨額の富を手に入れていた。そして、紹介されたジョブズらの話に興味を持った彼は、1976年11月に、アップルに加わり、自身の個人資産の92,000ドルを投資し、1977年1月3日、3人はアップルコンピュータを法人化した。株式は、ジョブズ、ウォズ、マークラで3割ずつ持ち合うこととなった。
1977年5月、ナショナル・セミコンダクターから引き抜いたマイク・スコットが、4番目の社員となる。ウォズは、アップルに注力するために、ヒューレット・パッカードを退社し、Apple Iの再設計を開始した。処理能力向上とディスプレー表示のカラー化、拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発。1977年6月5日、1,298ドルで発売されたApple IIは爆発的人気を呼び、1980年には10万台、1984年には200万台を超える売り上げで、莫大な利益をアップルにもたらした。1980年、アップルはIPO(株式公開)を果たし、750万株を持っていたジョブズは、2億ドルを超える資産を手にした。
[編集] LisaとMacintosh
1981年、IBMがIBM PCを発売し、パーソナルコンピュータ市場へ参入した。次第に、Apple IIはシェアを奪われてゆき、新しい製品が待望されるようになった。1978年、Apple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータとして、Lisa(リサ)・プロジェクトが立ち上げられた。
1979年、ゼロックスからの出資を受け入れる交換条件として、ジョブズの要請により当時ゼロックス管轄の研究所であったパロアルト研究所見学が行われた。その際、ビットマップディスプレイとマウスを前提とする「Alto」で、GUIを実現した「暫定Dynabook環境」(開発者のアラン・ケイらは、SmalltalkをOSとして動作するAltoをこう呼称した)のデモに大きな衝撃を受けたジョブズは、開発中のLisaに、これと同じ機能を持たせることを考え、自らプロジェクトを率いて行くこととなった。
1979年、アップルに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた1人だった。彼は、カリフォルニア大学サンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い、Apple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で、1979年、Macintoshプロジェクトを開始する。このMacintoshは、誰にでも簡単に扱える、ノート代わりのコンピュータを目指していた。
一方ジョブズは、会社内での独断専行の立ち居振舞いから、社長のスコットによって、Lisaプロジェクトのメンバーから外されてしまう。行き場が無くなったジョブズは、1981年、突如としてMacintoshプロジェクトに参画を宣言する。殴り込みを掛けるかのような突然の展開ではあったが、数人で動いていたMacintoshプロジェクトは、ジョブズを迎え入れた。そして、ハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役だったジョブズの働きで、予算も開発メンバーも増え、同時にLisaプロジェクトからも次々とスタッフの引き抜きを行った。しかし、Lisaを上回るものにしようとするジョブズが、ソフト(オペレーティングシステム)に関しても口を出し始めたために、ラスキンと対立してしまう。ことごとく対立を繰り返した揚げ句 、ラスキンは役員に対して「ジョブズの首を取るか、自分を新たな場に移すか」と直談判するが、最終的に役員サイドは、Macintoshプロジェクトにジョブズを押し込めておく方が、会社にとって悪影響が少ないと考え、ジョブズの考えを優先してしまう。そして1982年3月、ラスキンはアップルを去っていった。
ジョブズは、Macintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、基板パターンが美しくないという理由で、設計案を幾度となく却下した。また、同じく美しくないという理由で、拡張スロットの採用を拒否したり、みすぼらしいフロッピードライブのイジェクトボタンをなくさせ、オートイジェクトを導入させることも行わせた。筐体は、机上の電話の横に置かれる電話帳程の大きさが理想だとし、30cm四方のサイズに収まるように提案。初代Macintoshの筐体デザインは、よくドイツのフロッグデザインと誤解されるが、実際は、ジェリー・マノック(米アップル社員)によってデザインされたものである。以上のように、手間を惜しまなかったがゆえに開発は難航し、Macintoshがデビューしたのは1984年1月のことだった。
[編集] アップルコンピュータ解任とNeXT社設立
ジョブズとの対立が悪化していたスコットが、1981年、マークラによって解雇されてしまう。ジョブズは、スコットの後任として、マーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られ、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、引き抜き工作を行った。この時、スカリーを口説くために「このまま一生砂糖水を売りつづけたいか? それとも世界を変えたいか?」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)と言ったのだった。そして、熱烈なジョブズのラブコールもあり、1983年、ジョン・スカリーがアップルの社長の座に就いた。当時は、ジョブズとスカリーは強力なパートナーシップのためにDynamic Duoと呼ばれ、アップルの経営を押し進めた。
1984年後半、ジョブズは、Macintoshの需要予測を大幅に誤り、アップルは、Macintoshの過剰在庫に悩まされた揚げ句に、初めての赤字を計上してしまう。そしてアップルは、従業員の1/5にあたる人数のレイオフ(人員削減)を余儀なくされた。アップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、Macintosh部門からジョブズを解任することを取締役会に要求する。それを察知したジョブズは、スカリーの中国出張中にアップルからの追放を画策するが、アップル・フランスで功績を上げていたジャン=ルイ・ガセーの密告により、スカリーはジョブズが自分をアップルから追い出そうとしていることを知る。その後、スカリーは、1985年5月24日の取締役会で、ジョブズに画策について問いただした。この結果、ジョ� �ズは会長職以外、アップルでのすべての仕事を剥奪される。
ときにカールリンドナーは、チキータの最高経営責任者(CEO)を退任ましたか?
アップルでの仕事がなくなったジョブズは、新たなプロジェクトすら立ち上げられない状況にとどまることに絶望してしまう。そしてジョブズは、理想のコンピュータ像を求めて大学を歩いて回った際に、スタンフォード大学でノーベル賞受賞者の生物学者ポール・バーグと昼食を取ることとなった。その時に、DNA組み替え実験の難しさの話題が上った。ジョブズは、バーグへコンピュータでのシミュレーションを提案し、同時に、高等教育のためのコンピュータという構想を膨らませた。同年9月12日、その構想を実現すべく、ジョブズは、新しい会社NeXTを立ち上げるために、正式にスカリー宛てに辞表を送付した。また、決算報告を受け取るための1株だけを除いて、当時所有していたアップルの株、約650万株をすべて売却した。
当初、ジョブズは700万ドルをNeXTに投資し、1987年までには新しい製品が投入できるともくろんでいたが、実際に、NeXTの製品 (NeXTcube) を発表できたのは1988年秋で、最終版の出荷は、1989年になってのことだった。ジョブズはそれでも「5年は先取りしている」と語ったが(結果的にはMac OS Xの12年の先取り)、NeXTのロゴデザイン(ポール・ランドに依頼)に10万ドルを投じたり、OS (NEXTSTEP) の凝った仕様を開発するべく膨大な時間をかけたり、NeXTcubeの筐体デザインをフロッグデザインに依頼するなど、NeXTはあっという間に資金を食いつぶしていく。1987年にはゼネラル・モーターズで成功していたロス・ペローから2000万ドルの出資を、1989年には、キヤノンから1億ドルの出資を引き出した。
発表当初から、NeXTの評価は高かったが、ジョブズが強硬に主張した、フロッピードライブの代わりにキヤノン製の独自の光磁気ドライブ(5インチMOドライブ)を採用したことや、加工の難しいマグネシウム合金の筐体を使うことなどによって生産コストが高くつき、また、モトローラからのマイクロプロセッサ (MC68030) 供給が遅れるなどにより、思うように販売が伸びなかった。そして、サン・マイクロシステムズなどのワークステーション並みに高価な価格だったこと、その他のハードウェアと直接的に接続することができないなどの理由で、1992年にIBM互換機で動作するNEXTSTEPのPCバージョンを発表する。1993年2月10日には全社員530人のうち280人をレイオフし、ハードウェア部門をキヤノンに売却(FirePowerSystemsを設立)してソフトウェア会社と転じることとなる(社名も、NeXTソフトウェアへと変更される)。
NeXTcubeは、開発と運用のしやすさから、世界初のウェブサーバとして用いられたという大きな功績も残している。また、WebObjectsは、世界初のウェブアプリケーションサーバ開発運用環境となった。NEXTSTEPとその開発機能は、ウェブサーバなどを比較的簡単に開発構築・運用できる利便さを兼ね備えてものであり、今日のMac OS Xにも受け継がれている。
[編集] ピクサー
NeXT社の仕事の一方で、ジョブズは、1986年2月7日に、ルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、CEOの座に就いた。ピクサーの主要商品は、レンダーマンというシリコングラフィックスのIRIX上で動くレンダリングソフトであり、約10万本のセールスを記録し『ジュラシックパーク』のコンピュータグラフィックス制作でも使われた。ジョブズは、ピクサーに対してあまり口出ししなかったが、手っ取り早く利益があげられるコンテンツ作成を、ピクサー社のメンバーに提案した。
1991年、ピクサーは、ディズニーにCGアニメーション映画作成の売り込みを行い、同年3月3日に3本の劇場用作品の契約を結んだ。この結果、4年の歳月と、70台のSGIワークステーション、117台のSUNワークステーションを使った、全編コンピュータ・グラフィックスのアニメ映画『トイ・ストーリー』が、1995年11月22日に封切られた。公開までの4年間、ジョブズはピクサーに5000万ドルを投資しており、「こんなに金がかかるとは思っていなかった」と告白している。しかし、トイ・ストーリー公開直後に、ピクサーは株式を上場、またもジョブズは多額の資産を手に入れることになった。
2006年5月5日、ディズニーはピクサーを買収し、同社はディズニーの完全子会社となった。また、ジョブズ自身も、ディズニーの個人筆頭株主(持株率約7%)になると同時に、ディズニーの役員に就任した。
[編集] 結婚
1995年、スタンフォード大学のMBAで学んでいた.三歳年上のローレン・パウエルと結婚し、3月8日にヨセミテ国立公園のホテルで挙式、息子と娘が生まれた。子供が合計で2人。
[編集] アップルコンピュータ復帰
NeXTは、ソフト事業に特化した後、世界初のウェブアプリケーション開発・運用環境であるWebObjectsを出荷、NEXTSTEPも自社内開発を行う金融機関などに受け入れられ、まずまず安定した経営をしていた。しかし、ゴールドマン・サックスを頼って株式公開を目指すなどをしていたが、失敗に終わっている。
1995年末、ジョブズは、友人でオラクル創業者のラリー・エリソンと、共同で経営の傾いたアップルの買収を画策する。エリソンは、Windowsを打倒すべく、シンクライアントのネットワークコンピューティングを提唱しており、ジョブズと共に、これをアップルによって実現しようと考えていた。しかし、この考えはジョブズと合わず、最終的には、買収提案がなされる前に、話自体が流れてしまった。
ジョブズは、1996年の11月頃、アップルが自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げ、次期OSの基本技術を外部に求めているという話を聞く。アップルにNEXTSTEPを売り込むべく、当時アップルのCEOだったギル・アメリオに電話をかけた。12月上旬に入ってから、1985年の退社以来、久しぶりにアップルを訪れ、アメリオやマークラ達と話し合いを持ち、簡単なプレゼンテーションを行った。アメリオは後に、この時のジョブズの対応を愛想の非常に良い、好感の持てるものだったと言っている。
アメリオとアップルCTOのエレン・ハンコックは、次世代Mac OSの候補として、Be社のBeOS、サン・マイクロシステムズ社のSolaris(ソラリス)、マイクロソフト社のWindows NT、そして、NEXTSTEPの4つを挙げていた。元々アメリオは、ワークステーションやサーバで用いられ、堅実に動作するUNIXの中でも、特に、カーネギーメロン大学で開発されたMachに目を奪われていた。そして、そのMachについて調べて行くうちに行き着いたのが、NEXTSTEPであった。NEXTSTEPの高い信頼性、先進的な機能もさることながら、特に、WebObjectsの出来に感動し、ジョブズからの売り込みがなくても、交渉は行うつもりでいたのだった。
ジョブズ同様に、話を聞きつけてやって来た、Beのジャン=ルイ・ガセーも、アメリオに対してBeOSの簡単なデモを行う。アメリオは、BeOSの良さ(軽く動作し、扱い易い)を認識していたが、Be設立から数年経ってもBeOSには未完成部分が多く、製品版OSが発表される見込みが一向に立たない状態であった。BeOSを出荷できるようになるまで、膨大な作業が予想されることが明らかであったにもかかわらず、ガセーが法外とも言える金額を吹っかけて来たことも、懸念材料となった。その時点で、アメリオの腹は決まっていた。
同年12月のある日、ガセー率いるBeOSと、ジョブズのNEXTSTEPを比較するプレゼンテーションが行われた。ジョブズは、NEXTSTEPの良い面も悪い面もすべてさらけ出し、自分の不得意な分野は同行させたエンジニアと2人で進行し、完璧なプレゼンテーションを終えた。いっぽうBe(ガセー)のプレゼンテーションは、時間をずらし午後から行われた。ガセーは、1人でアップルにやって来て、既に「Beに決まった」と確信していたガセーは、「(プレゼンテーションは既に行っているので)BeOSは以前にご覧頂いた通りです」と述べたのみであった。
同年12月20日、アップルがNeXT社を4億ドルで買収することに合意、次期OSの基盤技術として、NEXTSTEPを採用すると発表した。ジョブズは、アップルに非常勤顧問という形で復帰した。この際、アメリオからプレゼントされた20周年記念Macintosh(Spartacus。当初の販売価格7,499ドルという代物)を、窓から投げ捨てたという噂があったが、真偽は定かではない。
1997年2月、正式にNeXT買収が完了した。アップルに復帰する際、買収代金の一部として、6か月先まで売却できないとの条件で150万株の株式を譲渡されていたが、アップルの復活を半ば諦めていたこともあり、期日が来るなり、またしても1株を残して即座に売却してしまう。
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そしてそんな最中、ジョブズは、経営の実権を奪取すべく、社内で隠密に行動を開始し、アメリオを追い出すための画策を講じる。「アメリオはいまだにアップルの業績を向上させられない」として、すべての役員を味方につけ、彼をCEOから引きずり下ろすことに成功する。7月に、アメリオが退社すると経営陣は、ジョブズにCEO就任を要請したが、彼は多忙を理由に、これを断った。ジョブズは、アップルの士気をあげるため、従業員のストックオプションの引き下げを役員に株主提案をしたが、役員のほぼ全員がこれを否定すると、ジョブズは当時筆頭株主であった立場を利用し、役員たちに辞任を迫る。結局、マイク・マークラを含む経営陣はほとんどが辞任し、その後任としてエリソンや、ジョブズと縁のある人物が就任した。
8月に、ボストンで開催されたMacworld Conference & Expoでは、議決権のない株式譲渡と技術提携(特許裁判をしないための条件)という名目を条件に、マイクロソフトから1億5000万ドルの資金提供と、マック版のマイクロソフトオフィスとインターネットエクスプローラの提供を受けることを柱とした、業務提携を発表する。最大のライバルとされたビル・ゲイツが、エキスポのゲストとしてスクリーンに登場すると、何も知らなかった観客にはブーイングする者も多く、複雑な心境でその様子を見つめていた。しかし、この提携が一定の役割を果たしたのは事実で、その後も、PDAのニュートン事業の清算をはじめ、いくつかプロジェクトを中止、アップル社内のレイオフを進め、大規模なリストラを行った。前後して、パワー・コンピューティングを買収してインターネット直売事業への参入 (Apple Online Store)を行い、Macintosh互換機メーカーへのMac OSライセンスを停止、利益率の高いPowerPC G3搭載機種を市場に独占投入。こうした矢継ぎ早の改革により、アップルの再建を軌道に乗せた。1998年には、iMacを市場に投入、斬新なコンセプトが話題を呼び、アップルの復活を人々に強く印象づけた。
[編集] CEO就任
2000年には、それまで拒否していたCEO就任を、正式に受諾。2001年3月、NeXTとアップルの技術を融合させ、オープンソース由来の技術を積極的に取り込んだMac OS Xを発売。従来のMac OSの後継とした。
同年、iTunesとiPodによって音楽事業に参入、音楽事業をパソコンと並ぶアップルの事業の柱にした。2007年1月9日、Macworld 初日の基調講演にてジョブズがiPhoneを発表し、アップルはNewton撤退以来9年ぶりに携帯コンピュータ事業に復帰する。iPhoneはスマートフォンを再定義する製品となり、ジョブズがCEOを退任する2011年までに、携帯電話事業はアップルの総売上高の5割を占めるまでに成長した[10]。
[編集] 病気との戦い
2003年、膵臓癌と診断されたが、幸いにも治療可能な症例(進行が穏やかである神経内分泌腫瘍と明かしている[11])であった。家族はじめ周囲はジョブズにすぐに手術をうけるように忠告したがジョブズはこれを頑なに拒否し、絶対菜食、ハリ治療、ハーブ療法、心霊治療などをネットで探し、民間療法などを用いて完治を図ろうとしていたといわれる[12]。医学的治療は遅れ、そのことから9か月後の検査で癌が大きくなっていることがわかり(この判断を当人は後に相当後悔したという)、ついに観念してごく親しい人以外には秘密にして、同年の8月に摘出手術を受け療養後復帰した。2005年6月12日、スタンフォード大学[13]の卒業式に招かれ、「Stay hungry, stay foolish」という『全地球カタログ』最終号からの引用[14]で締めくくられたそのスピーチは多くの共感を持って迎えられた。
2008年6月9日、第二世代iPhone(3G)発表時に痩せた姿で登場し、ジョブズの健康問題がマスメディアで取りざたされたが[15]、同年9月10日の第四世代iPod nano発表時に健康面に触れ、「自分の死亡説を流すのはやりすぎだ」と、健康不安についての臆測を一掃した[16]。しかし実際には2008年に肝臓への癌の転移が判明していて容態は深刻な状況であった。同年12月16日に、アップルがMacworldでの基調講演を行わないとの発表を行ったことで不安は再燃し、2009年1月6日に、あらためて「体重減少はホルモン異常のため」との書簡を発表し、重病説や辞任説を否定し「アップルのCEOとしての義務遂行が継続できなくなったら、最初に取締役会に話す」と宣言したが、1月14日に「6月末まで治療に専念」するためのCEO休職を発表した。6月23日の公式発表[17]によると、Methodist Le Bonheur Healthcareにて、重度の肝疾患のために移植待機リストで最高ランクの位置づけを受け、肝移植されていたこと、良好に回復しているということであった。しかし実際には2009年3月に肝臓の移植手術を受けていて、医師からはジョブズの肝臓は4月までもたないと宣告されていたという。なお、内分泌腫瘍の治療の一環で肝移植が行われること自体は選択肢の一つである(インスリノーマの項参照)が、有効性は議論の余地がある状況という[11]。
[編集] CEO退任
肝臓移植後、一旦体調は回復し、2010年5月にはお忍びで京都に家族旅行に出かけるなどしていたが、2010年11月以降再び体調が悪化。2011年に入り癌が再発。2011年1月18日、公式発表で病気を理由に休職することが発表された。日常業務は前回同様ティム・クックCOO(最高執行責任者)に任せるが、CEOにはとどまり、大きな戦略的決定には関与するとした。癌細胞と正常な細胞の遺伝子配列を調べたり、分子標的治療などの最新の治療をうけるなどしたものの癌の進行を食い止めることはできず、癌は骨などの全身に転移し、手の施しようのない状況であった。2011年8月24日、2009年の宣言のとおり「CEOとしての職務が継続できなくなったら話すと言っていたが、残念ながらその日が来てしまった」として、取締役会に辞表を提出してCEOを辞任、� ��任にティム・クックを推挙し、ジョブズの意向通りにクックが後継に就任した。同時に取締役会の承認を受けて会長職へ就いた。ジョブズがCEOを退任する8月には、アップルは時価総額でエクソンモービルを抜き、世界最大の企業となっていた。すでにこの時ジョブズは自力では歩くことができず、車イスで取締役会に駆けつけた。そしてティム・クックら幹部社員を部屋から退出させた上で、社外取締役に対し上記の内容のメッセージを読み上げた。この時社外取締役の一人は涙を流していたという。
[編集] 死去
2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により妻や親族に看取られながらパロアルトの自宅で死去[18][19]。 56歳没。正確な死亡時刻はアップルからは公表されなかった(クックが当日に従業員宛てで送ったメールによると、「earlier today(今日早くに)」であったという[20])が、当局の死亡証明書を取得したロイターやCNN等により現地時間(PDT)5日15時頃(日本時間の6日7時頃)と判明した[18]。遺体は7日にパロアルトの無宗派墓地に埋葬された[18]。
死去前日(10月4日)の午前中にiPhone 4Sの正式発表が行われていて、かろうじてその発表を見届けてからの死去となった。長年ライバル関係であったが30年来の良き友人でもあったビル・ゲイツを始めとする世界中の業界関係者からその死を惜しむ声が相次ぎ、バラク・オバマアメリカ合衆国大統領も弔意を表明した[21]。
ArchiCADなどの建築CADソフトウェアを手がけるグラフィソフトでは、同年12月21日、ハンガリーの彫刻家であるErno Tothによって彫られたジョブズの銅像をブダペストのグラフィソフトパークに建立した[22]。同社は創業期以来、商品の開発および販売面でジョブズ率いるアップルから支援を受けており、同社の本社があるグラフィソフトパークはジョブズの魂を追悼するのに最もふさわしい場所であるという[23]。なお、ジョブズの銅像が建てられたのは世界初である[22]。
[編集] ジョブズに対する評価
スティーブのように深い影響力を与えられる人間は、めったにいない。その影響はこれからの多くの世代にも受け継がれるだろう。
—ビル・ゲイツ, The Gates Notes, 2011年10月5日[24][25]
スティーブは米国のイノベーターの中で最も偉大な一人でした。違う考えを持つことに勇敢で、世界を変えられるという信念に大胆で、そしてそれを成し遂げることに十分優秀でした。この星で最も成功した会社の1つをガレージから作り上げることで、彼は米国の独創性の精神を実証した。スティーブは毎日が最後の日であるかのように生き、私たちの生活を変え、全産業を再定義し、私たち一人一人が世界を見る方法を変えました。
—バラク・オバマ, The White House Blog, 2011年10月5日[26][27]
ジョブズには1000マイル先の水平線が見えていた。しかし彼にはそこに到達するまでに通らなければならない道の詳細は見えていなかった。それが彼の天才性であり落ち度でもあった。
—ジェイ・エリオット
他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ。我々はジョブズのことを現実歪曲空間と呼んでいたのさ。
—ジェフ・ラスキン
スティーブはまさに刺激的な存在だ。放漫で、暴虐で、激しく、無い物ねだりの完全主義者だ。彼はまた、未成熟で、かよわく、感じやすく、傷つきやすくもある。そして精力的で、構想力があり、カリスマ的で、さらにおおむねは強情で、譲らず、まったく我慢のならない男だ。
—ジョン・スカリー
私がイヤな奴についての本[28]を書いていることが知れたとたん、誰もが進んでやって来てはスティーブ・ジョブズの話を聞かせてくれるようになった。シリコンバレーでいかにジョブズが恐れられているか、そのレベルには驚嘆するものがある。彼は人を震え上がらせ、悲嘆にくれさせる。だが、彼はほとんどいつも正しく、たとえ間違えている時でも、その創造性の豊かさには目を見張るものがある。
—ロバート・サットン(スタンフォード大教授)
民主主義に沿ってたんじゃ、素晴らしい商品なんて創れっこない。闘争本能の固まりのような独裁者が必要なんだよ。
—ジャン・ルイ・ガセー(Be社創業者、元アップル社員)
2009年11月には、アメリカの経済誌『フォーチュン』から「過去10年間の(最も優れた)最高経営責任者」に選出された[29]。
[編集] 人物像
アップル復帰当時は、上記のような解任前後のジョブズに対する人物評から、完璧主義による強引な経営を懸念する者もいた。しかし、復帰後は対立しているとされていた競合他社とも提携するなどし、ライバル企業の経営者をさえも惹き付ける人間性で知られている(オラクルのラリー・エリソンなどは彼の友人である)。また、人を引き抜く際にはその人を強く揺り動かす「魔法」を唱えることで知られ、前出のスカリーをペプシから引き抜く際の文句の他に、1982年当時ゼロックスで働いていたエンジニア、ボブ・ベルヴィールには「君は優秀だと聞いたけど、(ここでやってきたのは)全部ガラクタばかりだな。俺ん所で働けよ (I hear you're great, but everything you've done so far is crap. Come work for me.) 」と語りかけて引き抜いている[30]。
しばしば何の予告もなしに、突然価値観を180度変えることもあり「3か月前に白が最高だと言っていたのに、今では黒が最高だと言い始め、理由はそれが今正しいからいいんだと、自身以外は納得のいくものは何も口にしない」と元社員は語っている[30]。ソニー製品について「ソニーのHDVカメラは優秀で、高価だが一家に一台必要だ」と言う一方で、「iPodに劣る」としてウォークマンを批判するといった評価をしている。1999年10月5日のメディアイベントのスピーチ冒頭で、ソニー共同創業者盛田昭夫の死に追悼の意を表し、トランジスタラジオやトリニトロン、ウォークマンなど革新的な商品開発をアップルに大きな影響を与えたものとして称賛している。
部下に対して高い目標を提示し、精力的に優れた仕事へと導くため、理想の上司として評価されることも多い。と同時に、ジョブズの要求する水準を満たさない者に対しては放送禁止用語だらけの罵声を浴びせたり、その場で即クビにすることでも知られる。前アップルPR担当チーフのローレンス・クレィヴィアはジョブズとのミーティングの前には必ず闘牛士と同じように「自分は既に死んだ」と暗示をかけてから挑むと同僚に語っていた[30]。また、ジョブズのアップル復帰後に次々と社員がリストラされた際には「スティーブされる」(=クビになる) という隠語が生まれた。リーアンダー・ケイニーのINSIDE STEVE'S BRAINによれば、これらは部下にプライドと職を懸けさせなければ最高の仕事をしないからというのが理由であり、部下の意見を何度か却下した後に採用するのも同じ理由である。発案者が信念を持っていない意見やアイデアは無視すると決めている。例えば"iPod"という名称も採用する前に2度却下している。
また、アップルコンピュータ社の暫定CEOに就任して以来、当時赤字続きだったアップルのために自分はピクサー社の収入があるとし、一貫して給与は毎年1ドルしか受け取っていないことは有名である(しかし、慢性的赤字から経営を回復させた功績により、高額の成功報酬及びストックオプションがアップル社から与えられている)。実際、2004年にはストックオプションのほかの成功報酬はなく、本当に1ドルしか受け取っていない。
若い頃から禅に傾倒した仏教徒であり、しばしばスピーチなどで禅の教えを引用した。禅宗の僧侶、乙川弘文を精神的指導者と慕っており、結婚式にも招待している。禅だけではなく日本の文化に深い関心を持ち、晩年まで家族旅行でしばしば京都を訪れていた[31]。一方で、日本のビジネス界に対しては、日本のPCメーカーのことを「海岸を埋めつくす死んだ魚」[32]と表現する(ただし、これは日本のメーカーに対してではなく、日本のメーカーが大量の商品攻勢をかけられる可能性を作ったPC/AT互換機に対する揶揄であるとも言われている)など、辛辣な一面を見せることもある。
食生活には強いこだわりを持ち(大学時代から絶対菜食主義を貫いており、癌手術後にタンパク源が必要になって魚介類を取り入れるようになった)、日本食、とりわけ蕎麦や寿司を好んだことが知られている。アップル本社の食堂Cafe Macsにはジョブズが考案したという「刺身ソバ」なるメニューがある。Cafe Macsで働く日本人スタッフの女性は、ジョブズのために築地で本格的な蕎麦打ちの修行をしたという。アップルに復帰後、社員食堂を自社運営に切り替えて、ジョブズ自身がスカウトしたシェフが腕を振るっている。
ジョブズのトレードマークである黒のタートルネックは、三宅一生デザインのもの。ジョブスが1980年代に盛田昭夫に案内されてソニーの工場見学をしたことがきっかけになっている。三宅デザインのソニーの制服に感心したジョブズは、三宅にユニフォームを発注して、アップル社の制服にすることを提案したが、これは受け入れられなかった。しかしこれを機にジョブズは三宅デザインの黒のタートルネックとリーバイスのジーンズ、ニューバランスのスニーカーを自分のユニフォームと位置づけ、毎日それだけを着続けるようになったという[33][34]。
業界でジョブズにまつわる人物は数多いが、中でもマイクロソフトのビル・ゲイツは同じ1955年生まれということもあって、独特のライバル関係にある。世間では確執が語られることも多いが、自他ともに認める友人でもあり、ビジネスのみならずプライベートでも関係が深かったことが知られている。互いにビジネスの才覚については高く評価している。
腹心の部下であるバッド・トリブルが使い始めたという現実歪曲空間 (en: Reality Distortion Field) は、たとえ彼をよく知る人間がそれに備えていたとしても抵抗できないといわれている。
ボブ・ディランとビートルズ(特にジョン・レノン)の大ファン。アップルのプレゼンテーションで、ボブ・ディランの詩を朗読したりビートルズのジャケット写真を使ったことがある。
愛読書は、パラマハンサ・ヨガナンダ著「あるヨギの自叙伝」で、自分のiPad2にダウンロードした唯一の本。ティーンエイジャー時代に初めて読み、インド旅行中にまた読み、以来年一度は読み返していた。
型破りな性格は経営だけでなく、愛車のメルセデスにはナンバープレートを付けていないことにも表れている。これについては2001年のフォーチュン誌に「ちょっとしたゲームなんだよ」と語っている[30]。
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