序章 悠久のエジプト文明
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国際的にin1988何が起こったのか
● お 読 み い た だ く に あ た っ て ● |
● 内 容 目 次 ● |
第1節 エジプト史を読むために |
1.エジプト史への歴史学的アプローチ | 考古学分野として知られるエジプト史ですが、われわれは当室において、純粋に「歴史的分野」としてのエジプト史を概観していこうと考えております。「歴史的分野」の概念についてお知りになりたい方は、ぜひこちらをどうぞ。 |
2.歴史家神官の貢献 | 現代のエジプト歴史学を考えるうえで、プトレマイオス朝時代の歴史家神官マネトーを抜きにすることはできません。彼が後世の歴史家のためにどのような業績を残したのか、また現代に残る彼の影響力について概観いたします。 |
3.若き言語学者の発見 | フランスの若き言語学者シャンポリオンは、フランス陸軍が発見したロゼッタ石の正体を突き止め、後世の歴史研究に欠くことのできない、「ヒエログリフ(神聖文字)」の解読をなし遂げました。若くしてこの世を去った殊勲者に、わたしは最大の讃辞を惜しみません。 |
第2節 「上下エジプトの王」 |
1.独特な地理的環境 | ギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトの文明はまさにナイルの賜(たまもの)」であると記したのは、エジプト文明の素地においてナイル川が及ぼす地理的影響を悟ったからにほかなりません。実際、ナイル川がもたらす物心両面の因果関係は、その後のエジプト史を考えるうえで必要不可欠なものです。 |
2.エジプト王国の起源 | メネス王によって統一されたという上下エジプト王国は、果たして実在していたのか。また、アハ王によって建設されたといわれる聖都メンフィスが、政治的にどのような位置づけであるのか、エジプト王国の始まりを概観します。 |
3.王冠が象徴する統一伝説 | 映画やミュージカルなどでよく見るエジプトの王冠ですが、あれには統一伝説を象徴する、神々と人間との壮大なドラマが隠されていました。その図案の起源を、写真つきで詳細に解説いたします。 |
第3節 王の名前 |
1.王の5重称号 | エジプトのファラオたちは、実は5つもの称号を持っていました。それらの基本的な考え方、起源、文法的な特徴などを、かの有名な第18王朝の少年王ツタンカーメンのものを例にとって説明いたします。王名枠「カルトゥーシュ」や象徴体「セレク」の解説も充実。 |
2.王名の各国語表記 | どのように何かが不思議の世界のように分類になっていない GIF">現代エジプト歴史学において、紀元前8世紀以降のギリシア側資料は必要不可欠です。わたしはエジプト史と言いながらも地名・人名はギリシア語を用いておりますが、その学問的理由、また今後の地名・人名表記の指標についてここで開示いたします。 |
1.エジプト史への歴史学的アプローチ
われわれが現代読むことのできるエジプトの歴史は、かつて伝えられていたものが細部にわたって修正され、さらに随時出土する史料に沿って考証がなされたものである。ゆえにその内容は刻々と変わっており、わずか20年前の文献でも、現在出回っているものからすればすでに過去のものでしかない。それほど、エジプト史に関する発見は発掘が行われるたびに相次いでおり、学問としてのエジプト史も、日進月歩なのである。 現在では考古学分野として脚光を浴びているエジプトの歴史だが、18世紀から続いた考古学的発見や文字史料の解読などによって、歴史学としても成り立つようになりつつある。ここでいう歴史学とは、歴代支配者による政治形態の解明、歴史� ��因果関係の探究といったデスクワークをいう。現在刊行されているテキストによって、われわれはエジプトまで行かなくても、居ながらにしてその雄大な歴史を「読む」ことができるようになったのである。 エジプト史を読むにあたって、まず知っておかなければならない人物が2人いる。ひとりはプトレマイオス朝時代の神官マネトー、そしてもうひとりは、その生涯を賭けて神聖文字(ヒエログリフ)の解読に取り組んだフランスの学者ジャン・フランソワ・シャンポリオンである。 2.歴史家神官の貢献
エジプト系ギリシア人の神官マネトーは、デルタ地帯の出身である。生没年はわかっていないが、プトレマイオス朝の創始者プトレマイオス1世(在位前323年〜前282年)時代の人物であったことは� �かである。彼はヘリオポリスで信仰が始まっていたセラピス(セラフィス)神の神官であり、その在職中に、主著『エジプト史』を書き上げたのである。彼と彼の著書がなければ、エジプトはまさに謎の古代文明でしかなかったともいえる。 『エジプト史』は残念ながら、マネトー自身の筆になるものが伝えられているわけではなく、われわれは後世の歴史家たちによる引用という形でしかそれを読むことができないのである。しかしかの『ユダヤ戦記』で有名なユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスや、キリスト教史家セクトゥス・アフリカヌス、カエサレアの司教エウセビオスなど、多くの歴史家たちによってマネトーの著書は引用されており、1世紀からすでに重要な歴史書として認知されていたものと考えられる。 マネトーの『エジプト史』においてもっとも重要なのは、歴代の支配者「ファラオ」の治世期間を基準にして歴史的事件やファラオ自身の人物像を伝えており、さらに王たちの家系ごとに30の王朝に分類していることである。彼の伝えるファラオは、 紀元前3100年ごろにエジプト全土を統一したとされる伝説上の王メネスに始まり、彼からするとほんの数十年前の人物であった第30王朝最後の王ネクタネボ2世までの総勢150名以上。現代でもマネトーの王朝分類法は引き継がれており、古代エジプト史を論ずるうえでなくてはならない方法論を提供してくれている。なお、「初期王朝時代」「末期王朝時代」などの分類法は、マネトーの王朝分類法を基礎に、後世の歴史家たちが考案したものである。 →写真についての解説はこちら
なぜツインタワーが落ちたのか? 3.若き言語学者の発見
フランスの言語学者シャンポリオンが注目したのは、1799年にデルタ地帯の河口の街ロゼッタで発見された謎の石碑であった。それは三段に分割されており、最上段と2段目は謎の古代文字、3段目はギリシア語で何かの文書が彫りつけられているものだった。 当時すでに、神聖文字(ヒエログリフ)には、支配者の名前は楕円形の枠(カルトゥーシュ)で囲むいうルールがあるということはわかっていたので、シャンポリオンはカルトゥーシュを解読することから始めた。彼はフィラエ島にあるオベリスクに彫られているクレオパトラ7世のカルトゥーシュとロゼッタ石のカルトゥーシュ、さらにギリシア語を比較� �てていねいに研究した結果、ロゼッタ石に刻まれたカルトゥーシュは「プトレマイオス」と読むことがわかったのである。それからは解読がスムーズに進むようになり、彼はロゼッタ石が、紀元前196年にプトレマイオス5世によって布告された法令文であることまで突き止めた。そしてこの研究成果は、1822年、論文「ダシエ氏への手紙」として発表された。 このふたりの人物がいて初めて、エジプト史は体系づけられた歴史として読むことができるようになったのであり、その後の研究にとってなくてはならない基礎が形づくられたのである。
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1.独特な地理的環境 エジプト文明は、世界四大文明のうちで唯一、最初から最後まで神聖な神の化身「ファラオ」が統治する王制が持続した古代文明であった。 エジプトの国土はナイル川に沿って南北に長く、それ以外の土地は当時から砂漠化が進んでおり、文明初期においては国土にすら含まれないことが多い(ようやく中王国時代になり、オアシス都市を結ぶ交易路が開拓され、沿道が領土とされるようになった)。エジプト人たちは耕作可能な沃土を「黒い土地」(ケメト)、砂漠化が進み居住すらできない土地を「赤い土地」(デシェレト)と呼んで区別していた。 ナイル川はスーダンのアトバラ川と合流するのを最後に、河口のデルタ地帯にいたるまで、一本の支流もないという特異な川である。そ のため、上流のエチオピア高原(当時は「ヌビア」や「メロエ」といった)が雨期を迎えると川は大規模な氾濫を起こし、下流の耕地はあっという間に冠水してしまう。だがその洪水は上流から肥えた土を大量に運搬してくれるので、エジプトはローマ時代になっても、豊かな穀倉地帯としての地位を保つことができたのである。 また定期的な川の氾濫は、収穫後に死の世界となる耕地に新たな生命をもたらす沃土を運んでくれることから、生命の終焉と復活に関する重要な死生観の象徴となったと考えられる。 そして、南北に長いエジプトの国土は、ナイル川上流の「上エジプト」と、北部デルタ地帯の「下エジプト」というふたつの文化形態を別個にはぐくむという状態をもたらした。この両国を統一し、エジプト全土をた ったひとりで支配できる人物こそが、神王「ファラオ」として認められたのである。
2.エジプト王国の起源
世界四大文明のひとつに数えられるエジプト文明だが、石器時代を脱し、歴史年代としてスタートするのは、広大なナイル川流域を統一した単一の王朝が誕生したときである。だが後世にわたるまで王国の底流であった文化形態の多くは先史時代にすでにほぼ完成していたと思われる。統一は単なる通過点に過ぎない。 メネス王によってなし遂げられたという「エジプト統一」という伝説上の偉業は、後世さまざまな形で王権を象徴する様式として図案化されて残っていくことになる。 上下エジプトの境界は、現在の首都カイロの付近であるとされ、以南を上エジプト、以北を下エジプトと呼んでいる。メネス王が築いたとするメンフィスの� ��は、ちょうどその境界線の上にあり、政治上たいへん重要な位置を占めていた。古王国時代が終わるまでは上下エジプト間の確執が根強く残り続けることからも、王たちは統治上の必要から、この地に行政の中心地を定め続けた理由がわかる。 →写真についての解説はこちら 3.王冠が象徴する統一伝説
歴代の王たちは、上下エジプトの支配者であるというみずからの立場を、図案化された象徴で表現することを伝統とした。 低く赤い王冠「赤冠」(デシェレト)は下エジプトを象徴し、土地神である女神ウアジェト(コブラ)が守護している。対して高く白い王冠「白冠」(ヘジェト)は上エジプトの象徴であり、土地神である女神ネクベト(ハゲワシ)が守護している。写真はツタンカーメン王墓で 発掘されたきらびやかな胸飾りであるが、オシリス神を守っている2女神のうち左が白冠をかぶったネクベト、右が赤冠をかぶったウアジェトである。 初期王朝時代では、同一のレリーフや壁画に王の姿を複数登場させ、それぞれが白冠、赤冠を別にかぶることで上下両国の統一を図案化していた。事実上の統一者であるとされるナルメル王は、「ナルメルのパレット」のウラとオモテでそれぞれの王冠をかぶっている。 しかし古王国時代より後になると、王の姿をわざわざふたりも登場させるより、王冠を組み合わせてしまおうという図案が登場した。それが「二重冠」(セケムティ)で、写真でホルス神がかぶっているのがそれである。ホルス神はファラオたちにとって重要な存在で、王権は彼によって保障されていたから である。 また、下エジプトのデルタ地帯に自生するパピルスを下エジプトの象徴、上エジプトの河畔で美しい花を咲かせる蓮の花を上エジプトの象徴とすることもあり、それらは神殿の柱頭(天井を支える部分)のモチーフにされたり、ハピ神によってパピルスと蓮の茎が結び合わされる図案でも、上下エジプトの統一を象徴することがある。 →写真についての解説はこちら
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1.王の5重称号
中王国時代の第11王朝以降、ファラオたちは5つで1組の称号を用いた。これらは上下エジプトの統一者としての宗教的な意味合いや、武勲を重んじた「戦う王」としての姿を国民に象徴する目的で即位時に授与されるものであった。それらには順序があり、即位時に並列して布告されるものであった。1.「ホルス名」、2.「二女神名(ネブティ名)」、3.「黄金のホルス名」、4.「即位名」、5.「誕生名」の順である。 1.のホルス名というのは、王権の保護者ホルス神の代弁者であるという、王みずからの姿そのものを表現するために名付けられた。第4王朝以前の初期王朝時代〜古王国時代前期までは、王はたいていホルス名のみでその存在が伝えられている。宮殿の障壁と外壁をかたどったセレク という四角い囲みの上に、ホルス神であるハヤブサが1羽とまっており、その囲いの中に王のホルス名のみが記されているのである。当初はその文字そのものが王の姿を示していたが、のちに王のレリーフの右上につく名札のような役割になった。セレクじたいは、「ナルメル王のパレット」上辺にすでに彫られている。 2.の二女神名(ネブティ名)は第1王朝のアハ王によって使われだしたもので、上エジプトの象徴ネクベト女神と下エジプトの象徴ウアジェト女神に捧げられた称号である。冠詞として、称号の前にコブラとハゲワシが並んでいる。 3.の黄金のホルス名には、王の武勲を祈る言葉が割り当てられ、勇ましい言辞が羅列されることが多い。だがこれは中王国時代になってようやく一般化するものであり、それま� �はあまり重要なものではなかったと考えられる。冠詞として、輝く止まり木の上に座るハヤブサが最初につく。 4.の即位名は王の即位と同時に授与されるもので、事実上、王の第二の名前であり、国民は一般的にこの称号を王の名前として認識していた。即位名には王自身が想定する施政方針のような言辞があてられ、国内統治に力を入れたい王と、アジアを席巻して軍事力を誇示したい王とでは、おのずから差が出る。また、この即位名は変更不可であった。冠詞として蜂と菅の図案が用いられる。 5.の誕生名は、王が生まれたときにつけられる名前で、これ自体が宗教的な意味をもつが、これが王の本名であると考えてまず間違いない。古王国時代の第4王朝の祖スネフェルが初めて王名に自分の本名を入れることを発案し� ��スネフェル王の孫ジェドエフラーが定冠詞「ラーの息子」をつけ加えることを始めた。以降、4.の即位名と5.の誕生名は「カルトゥーシュ」という楕円(本来はロープでできた輪)で囲んで並列させることになったのである。王の墓のレリーフなどを見ると、必ずカルトゥーシュはふたつで1組になっていることがわかる。 例として、ツタンカーメン王の5重称号を掲載する。 1. ホルス名:カーナクト・トゥト・メスウト 「強き雄牛、創造された形をあてはめられた者」 2. 二女神名:ネフェルヘプ・セゲレフタウィ・セヘテプネチェル・ネブゥ 「法の活力、2つの国を平らげる者、すべての神々をなだめる者」 3. 黄金のホルス名:ウチェスカウ・セヘテプネチェル 「宝器を示す者、神々をなだめる者」 4. 即位名:ネスウビト・ネブケペルウラー 「上下エジプトの王、主ラー神の出現」 5. 誕生名:サ・ラー・トゥトアンクアメン 「ラーの息子、アメンの生きる姿」 →写真についての解説はこちら 2.王名の各国語表記
ここで、当サイトにおける王名表記のルールを開示することにする。 初期王朝時代から新王国時代までは、ピラミッドや王墓などから発見された王名(セレク、カルトゥーシュ)をもとに、エジプト語表記において決定している。なお、マネトーの『エジプト史』における王名(例:メネス、アトティス、ミケリノスなど)や、より一般的であろうと思われる英語表記(イクナートン、ラムセスなど)は必要に応じて記載する。 末期王朝時代以降は、より克明であるギリシア側の史料によっているという理由から、ギリシア語での王名を記載する。ゆえに、第30王朝のファラオ、ネクタネボ1世と2世は、エジプト語では別々の名前(1世は「ナクトネブエフ」、2世は「ナクト� ��ルエブ」)であっても、ギリシア語で同じであるなら同名であると判断している。エジプト名も併記することで、こうした誤解にも対処する予定である。 また都市名も同様であるが、これも所在地について詳しいギリシア語の表記によることにしたい。ちなみに後世のギリシア語表記はエジプト語にはまったくよっておらず、ギリシア人旅行者が見たままの印象で勝手に名付けた場合がほとんどである。たとえばテーベは本来の名前を「ワセト」というにもかかわらず、ギリシアの聖都テーベの名前をそのまま持ってきただけなのである。一方、「ヘリオポリス」「ヘラクレオポリス」など、はっきりとギリシアの神の名を当てはめたものだとわかる名称もある。 年代についてはさまざまな資料によって見解の相違があり、実� ��、わたしが収集した文献のどれをとっても、同じであるものはなかった。本サイトではエディンバラ大学のビル・マンリー教授の『地図で読む世界の歴史・古代エジプト』(鈴木まどか監修、河出書房新社)による在位年間表をもとに年代を表記している。
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