2012年4月22日日曜日

カンザス シティ - 観光 【トリップアドバイザー】


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2012年4月21日土曜日

グラディエーター - Wikipedia


グラディエーター』(原題: Gladiator)は2000年に公開されたハリウッド製作の歴史映画。

制作会社はドリームワークスで、監督は『エイリアン』、『ブレードランナー』などを製作したリドリー・スコット。主要キャストはラッセル・クロウ、ホアキン・フェニックス、コニー・ニールセン、オリヴァー・リード(これが遺作となった)、ジャイモン・フンスー、デレク・ジャコビ、リチャード・ハリス。

帝政ローマ時代中期が舞台の歴史映画。ラッセル・クロウ扮するローマ軍将軍マキシマス・デシマス・メレディウスは皇帝アウレリウスと皇太子コモドゥスの確執に巻き込まれて家族を失い、自らも奴隷に身分を落とす。マキシマスはコモドゥスへの復讐を誓い、ローマ文化の象徴の一つである剣闘士(グラディエーター)として名を上げていく。

2000年5月5日に発表された同作は優れた映像美やストーリーから大きな商業的成功を収めた。評論家からも高い評価を得て、第73回アカデミー賞作品賞並びに第58回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞を受賞する名誉を受けた。

本作の成功を受けて、すぐに製作陣では続編として本編の前後を描いた作品が計画されたものの、現在に至るまで実現されていない。

[編集] ストーリー


注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。免責事項もお読みください。


[編集] 冒頭

時代はネルウァ=アントニヌス朝のローマ帝国。平民出身の将軍マキシマス・デシムス・メレディウス(Maximus Decimus Meridius)は、ゲルマニア遠征で、蛮族との決戦を迎えていた[2]。降服を説得するためローマ軍から遣わされた使者が斬首され、その首が晒されたのを皮切りに両軍の戦闘が始まる。ローマ帝国軍は東方属州からの弓兵隊や工兵隊のカタパルトを駆使して森林地帯に潜むゲルマニア軍に砲撃を与えた後、軍団兵を前進させる。高地に陣取る蛮族の軍勢に軍団兵は苦戦を強いられるものの、マキシマスは自ら騎兵部隊を率いて蛮族を背後から強襲して敵将を討ち取り、結果として勝利を得る。傷付き倒れる兵士達を目に、老境を迎えつつあった皇帝アウレリウスは膨張し続ける帝国の崩壊が近付いている事を悟るのだった。

老いた皇帝を悩ませるもう一つの問題が、帝位継承についてだった。賢帝と名高いアウレリウスは、勇気や正義感など持たず、貴族との政治や策謀に没頭する皇子コモドゥスを疎ましく思い、その一方でマキシマスの勇敢かつ無欲な部分を気に入っていた。アウレリウスは、問題を抱えるローマを根本的に立て直すには、民衆が貴族と同等に政治を行っていた共和制へ戻す必要があると考え、その遺志の実現には継ぐにはマキシマスに帝位を譲るべきだと考える。一方、皇帝の実子であるコモドゥスは、父の愛情が自身に向けられていない事を不安に感じ、旧友でもあるマキシマスに、側近として自分の治世を助けてくれるように頼む。

アウレリウスはマキシマスを自らの天幕に呼び寄せ、戦いの愚かさについて説く。マキシマスはローマを光に例えて遠征の意義を反論するが、アウレリウスは「退廃してしまった近年のローマを知らない」とマキシマスを諭す。そして共和制へ戻す構想を伝え、その実行者としてマキシマスを指名する。マキシマスは「帝位を継ぐ気でいるコモドゥスはどうなるのか」と尋ねるが、アウレリウスは「君主の器ではない」と一蹴する。アウレリウスは自分が必ず説得すると約束し、マキシマスは考える時間が欲しいと述べて天幕を離れる。

[編集] 皇帝暗殺

遅れて天幕に呼ばれたコモドゥスは、その場に安置されていた父の胸像の前で待っていた。やがて皇帝本人が後ろから現れる。アウレリウスはあえてコモドゥスに帝位を継ぐ覚悟を尋ね、コモドゥスは喜んで大任を引き受けると応えるが、告げられたのは帝位をマキシマスに譲るという内容であった。

自身にその理由や共和制移行の大義を説く父に対し、コモドゥスは以前にアウレリウスから送られた手紙について話し始める。手紙には皇帝に必要な「徳」(正義・知恵・不屈・自制)が書かれていたが、コモドゥスに備わる徳(野心・策謀・勇気・献身)は何処にも書かれていなかった。それはまるで自分を息子と認めたくないかのようだったとのコモドゥスの言葉に、アウレリウスは穿った考えだと否定する。しかしコモドゥスは自分は父親が誇りに思える息子になりたかったと告げ、なぜ自分を憎むのかと涙を流す。

息子と対話するアウレリウスは、父親として息子に接するのを怠った事が、結果として息子を歪ませてしまったと悟る。息子の前に跪いたアウレリウスは「息子が至らぬのは、至らぬ父を持った為だ」と子を庇う言葉を述べ、自らも涙して和解の抱擁を求める。コモドゥスはアウレリウスを抱きとめるが、そのまま泣きながら父親を殺してしまう。愛情よりも畏怖が勝っていた父親が、不出来な自分に許しを乞うた姿を認められなかったのである[3]

翌朝、腹心の将軍クィントゥスから皇帝の死を知らされたマキシマスは天幕に向かう。コモドゥスからは皇帝が「病死」したと告げられるが、アウレリウスから廃嫡の意思を伝え聞いていたマキシマスは事実に気づき、忠誠を求めるコモドゥスを拒絶して事実を明らかにしようとする。しかし大方の者たちは事実を知った上でコモドゥスに従っており、クィントゥスもマキシマスを裏切って彼を捕らえ、従わなければマキシマスとその家族の処刑せよとの皇帝の命を実行する。

マキシマスは家族を守る為に近衛兵達と一戦を交えて脱出、不休で馬を乗り換えながらスペインの故郷へ急ぐ。しかし辿り着いた家は焼き払われ、息子は兵の馬蹄に蹴散らされ、妻は絞首刑に処せられていた。絶望から泣き崩れるマキシマスはその場に倒れこみ、やがて疲労から意識を失ってしまう。

[編集] 剣闘士として

目が覚めた時、マキシマスは商人の一団に捕らえられ、属州アフリカのズッカバルの奴隷市場で売られていた。生きる意義を失ったマキシマスは脱出する訳でもなく、無気力にされるがままに過ごしていた。そこへ小さな剣闘士団を運営するプロキシモという男が現れる。マキシマスは剣闘士として使えそうな奴隷を探し回っていたプロキシモに「スパニャード」(スペイン人)として売り飛ばされる。

剣闘士団では先輩の剣闘士ハーゲンが奴隷達の審査を行い、勇敢なものは赤、臆病者は黄色と絵具で印が付けられていく。自分の番が回ってきた時、マキシマスは武器を取ることすらせず殴られるままになり、プロキシモから興味を持たれつつも黄色を塗られる。新入りたちは最初の儀礼として闘技場の標的として送り込まれる。多くの奴隷が惨殺される中、マキシマスは剣闘士達を相手に見事な戦い振りで応戦し、同じく奮戦していたヌミディア人奴隷のジュバと二人で試練を乗り越え、図らずも剣闘士への第一歩を踏み出してしまう。

マキシマスが新しい宿命を得た時、折りしも遠く離れた帝都ローマではコモドゥスが壮麗な凱旋式を執り行っていた。元老院の貴族達は経験の無い若い皇帝を侮るが、コモドゥスは元々は共和制であるローマでは貴族より民衆に力がある事を見抜いていた。娯楽や食料を惜しみなく分け与えて民衆を喜ばせ、また自らも民を愛する皇帝として振舞う事でコモドゥスは民の心を掴み、元老院を無視した専制的な統治を進めていく。

娯楽の中で特に人気を博したのが剣闘技大会であった。それまでコロッセウム(大闘技場)での剣闘は禁じられていたが、コモドゥスの計らいで大会大会が再開されていた。地方都市に散らばっていた剣闘士団が挙って帝都ローマに集う中、プロキシモは次第に成長するマキシマスを引提げて自らもローマの大会に参加しようとする。マキシマスは興味無がないと答えるが、剣闘士が自由を与えられる際、皇帝と謁見できると聞いて失っていた復讐心を取り戻す。マキシマスは真意を隠した上で自分も自由を得たいと告げ、プロキシモは「ならば民衆を味方につけろ」と助言する。プロキシモもかつては名うての剣闘士であり、他でもないアウレリウス帝によってルビアス(木剣)を賜り、自由の身を得たのだった。

[編集] 帝都ローマへ

ローマに宿営地を構えたプロキシモの剣闘士団だったが、不利な契約を取り付けられ、ポエニ戦争ザマの戦いを模した闘技での「カルタゴ軍」役に駆り出されてしまう。興行師達の賭けでは十中八九が負け試合であったが、鼻当て付きの兜を被ったマキシマスは将軍時代の経験を生かして剣闘士団を指揮し、「ローマ軍」役の戦車騎馬隊を壊滅に追い込む。本来はローマが勝利するはずの筋書きが変わってしまったが、民衆は怒るどこか、圧倒的に不利な状態で打ち勝った剣闘士団を讃え、歓声を上げる。貴賓席でその様子を見ていたコモドゥスは「スパニャード」という剣闘士に興味を持ち、会見すると告げる。

近衛兵とクィントゥスを連れて闘技場に入ったコモドゥス。マキシマスは落ちていた弓矢の鏃を手の中に隠して暗殺しようとするが、皇帝の甥ルキウスがコモドゥスの傍らに居た事から躊躇ってしまう。時期を逸している内にコモドゥスはマキシマスを「ヘラクレスの化身」と賞賛して、兜を外して本当の名を名乗る様に促す。背を向けて立ち去ろうとするマキシマスにコモドゥスは皇帝の命に背くなと告げ、再度兜を外す様に促す。覚悟を決めたマキシマスは素顔を晒して向きかえり、「真の皇帝マルクス・アウレリウスの臣下、マキシマス・デシマス・メレディウス」と名乗る。

死んだはずのマキシマスの姿に動揺したコモドゥスは、衆人環視のなかでクィントゥスに処刑を命じる。しかし闘技場の英雄を殺そうとする皇帝を見た民衆は「殺すな」と連呼し、やむなくコモドゥスはマキシマスを助命する。皇帝ですら、ローマの民衆の声に逆らう事はできないことは同じであった。コモドゥスは闘技場でマキシマスを殺すべく「ガリアの虎戦士」と謡われた剣闘士ティグリスとの試合を用意、加えて闘技場に虎使いを控えさせ、ティグリスに有利となるように仕向けておく。しかしマキシマスはティグリスを破り、更に民衆の「殺せ」との叫びを受けてコモドゥスが処刑を命じると、わざとこれに反抗してティグリスを助けてしまう。民衆はマキシマスを慈悲深いと賞賛し、ますますコモドゥスの立場を危うくする� ��

[編集] 謀議

名誉を度々傷つけられたことでコモドゥスの人気は下降し始め、元老院内のグラックス議員ら反対派の政治家達も反乱の謀議を進め始める。コモドゥスの冷酷さを知った姉のルッシラの手引きで、グラックスとマキシマスは引き合わされ、マキシマスは元老院の手引きで、かつて指揮した軍団の元へ脱出する計画を告げる。グラックスはマキシマスが独裁を行わないという保証はないと反対するが、マキシマスは亡き皇帝の意思に沿うだけだと語り、自分はコモドゥスと刺し違えればそれでいいと説得する。

グラックスはマキシマスを信じてプロキシモから身柄を買い上げようとするが、皇帝から怒りを買う事を嫌うプロキシモは拒絶する。プロキシモはコモドゥスに恨みがあるわけでもなく、むしろ自分を金持ちにしてくれたと笑う。窮したマキシマスは暫く考えた後、「先帝を殺した男だ」と告げる。

一方、宮殿ではコモドゥスがマキシマスの存在を恐れるようになっていた。皇帝の側近であるファルコ議員はマキシマスが手に負えなくなる前に殺すべきだと助言するが、コモドゥスは「民に憎まれたくない」と拒絶する。そこでファルコとコモドゥスは一計を案じてわざとマキシマスや反対派を泳がせ、反乱を起こした直後に捕らえる計画を立てる。計画は見事に成功してグラックスとルッシラがまず捕らえられ、更にプロキシモが殺され、最後にはマキシマスも捕らえられた。

[編集] 一騎打ち

コモドゥスは民衆が納得する方法でマキシマスを処刑するため、闘技場での一騎打ちを望む。自分自身で戦うのかと尋ねるマキシマスに、コモドゥスは自分が恐れるとでもと返すが、マキシマスはこれまでずっと恐れ続けた人生だったろうと笑う。「英雄」とは違って人間なら誰でも恐怖を感じるとコモドゥスは反論するが、マキシマスはかつて偉人が残した「死を避けられないなら、笑って受け入れるのみ」との言葉を教える。コモドゥスが「その言葉の主は自分が死ぬ時も笑えたか」と尋ねると、マキシマスは「思い出せ」と返す。言葉の主はコモドゥスが自ら殺めたアウレリウスだったのである。

コモドゥスはマキシマスの腰にナイフを突き立てて傷を与え、クィントゥスに命じて甲冑で傷を隠させて出場させる。民衆の歓声の中で両者の試合が始まり、傷の苦しみから思うように戦えないマキシマスは苦戦を強いられる。それでも気力を振り絞ってコモドゥスの剣を弾き飛ばすが、やがて意識が遠のき始めてしまう。コモドゥスはクィントゥスに新しい剣を寄越せと叫ぶが、クィントゥスは兵士達に決して手出しをするなと命じる。

追い詰められたコモドゥスは先のナイフを取り出して止めを差そうとするが、朦朧としながらも戦おうとするマキシマスと素手での激しい撲り合いとなる。乱戦の末、マキシマスがコモドゥスの首下にナイフを持った手を押し向けていき、抵抗するコモドゥスの力を押さえ込んで喉にナイフを突き刺す。次第に崩れ落ち、力無く倒れこんでコモドゥスは絶命する。そしてクィントゥスらに、グラックスの解放と、正しい形にローマを戻すように言い残してマキシマスもまた倒れる。

闘技場の砂に倒れた両者の遺体。民衆は皇帝の遺骸を放置し、マキシマスの遺骸を掲げて去っていくのだった。

2012年4月19日木曜日

ルクセンブルク - Wikipedia


ルクセンブルク大公国
Grand-Duché de Luxembourg(フランス語)
Großherzogtum Luxemburg(ドイツ語)
Groussherzogtum Lëtzebuerg(ルクセンブルク語)
国の標語: Mir wëlle bleiwe wat mir sinn
(ルクセンブルク語: 我々は今ある状態を保ちたい(我々は独立していたい))
国歌: 我が母国
  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([1])
  2. ^ 1999年以前の通貨はルクセンブルク・フラン。
  3. ^ ルクセンブルクのユーロ硬貨も参照。

ルクセンブルク大公国(ルクセンブルクたいこうこく)、通称ルクセンブルクは、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。首都はルクセンブルク市。隣接国は、南のフランス、西と北のベルギー、東のドイツである。ベルギー、オランダと併せてベネルクスと呼ばれる小国のひとつ。

正式名称は、

フランス語で Grand-Duché de Luxembourg (グラン=デュシェ・ドゥ・リュクサンブール)

ドイツ語で Großherzogtum Luxemburg (グロースヘアツォークトゥム・ルクセンブルク)

ルクセンブルク語で Grousherzogdem Lëtzebuerg (グロウスヘルツォークトゥム・レツェブエシ)。

英語で Grand Duchy of Luxembourg (グランド・ダチィ・オヴ・ラクセンバーグ)。通称、 Luxembourg

日本語での一般的な表記はルクセンブルク大公国。通称ルクセンブルクであり、外務省もこの表記を用いている。これはドイツ語読みが定着したものである。以前は(英語に影響されたと思われる)ルクセンブルと表記されることも多かったが、現在はあまり使われない。

フランス語に基づきリュクサンブールと表記されることもある。

963年、アルデンヌ家のジーゲフロイト(Sigefroid)伯爵が、今の首都の領土に城を築いたことに始まる。その当時、砦を"lucilinburhuc"(小さな城)と呼んでおり、それが変化してLuxemburgとなった。1060年頃、アルデンヌ家の分家であるルクセンブルク家に伯爵位が与えられた。14世紀から15世紀にはルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝やボヘミア王を出し、1354年にルクセンブルク家の皇帝カール4世によって伯領から公領へ昇格された。しかしルクセンブルク家はカール4世の孫の代で断絶し、ルクセンブルク公領は抵当に入れられた後、1461年にブルゴーニュ公国に併合された。その後、ネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインやオーストリアの支配を受けた。

フランス革命期にフランスの支配を受けた後、1815年にウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国となった。1830年のベルギー独立革命の際にはベルギーと行動を共にし、ベルギーの独立後は首都ルクセンブルクを除いて、その統治下へと置かれた。1831年、ロンドン会議によって領土の西半分(現在のリュクサンブール州)をベルギー、残りの領土をオランダ国王の統治下へと帰属することが決められた。この割譲が実現されたのは、1839年になってからである。1867年にはロンドン条約によってプロイセン王国とフランスの緩衝国とするため永世中立国となった。1890年、元ナッサウ公のアドルフがルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消した。

第一次世界大戦と第二次世界大戦においては、ドイツの占領下に置かれた。1948年、ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATOに加盟し永世中立を放棄した。1957年に欧州経済共同体、1967年に欧州連合、1999年にユーロ圏へといずれも原加盟国として参加している。

立憲君主制。国家元首はナッサウ=ヴァイルブルク家が世襲するルクセンブルク大公。内閣とともに行政権を執行する。2009年現在、世界唯一の大公国である[1]

議会は代議院による一院制。全60議席、任期5年。議員は、直接選挙で選出される。また、議会に対して助言をする国務院(コンセイユ・デタ)がある。メンバーは全21名で、首相の推薦に基づき、大公が任命する。

陸軍のみを有し、総兵力は4個中隊、約450名。空軍・海軍はない。北大西洋条約機構に加盟し、欧州合同軍にも兵力を提供している。

[編集] 地方行政区分

3つの広域行政区に分かれる。

2012年4月18日水曜日

America Of 広小路クリニック


 2005年8月夏休みに、娘を訪ね、アメリカへ旅行した感想をまとめてみました。

シカゴで乗り換え、ナッシュビルへ

長女が2004年9月からヴァンダービルト大学へ留学していたので、昨年(2005年)8月、クリニックの夏休みを使って訪ねました。ナッシュビルはア メリカ南部にありテネシー州の州都で、人口約57万人。ダウンタウンには高いビルも立ち並ぶ都会ですが、長女のアパートメントは郊外にあり、のどかな所でした。ナッシュビルはカントリーミュージック発祥の地で、(Country Music Capital of the World)と呼ばれているそうです。最後のデイナーをナッシュビルのレストランで摂った時、食後にバーに案内され、そこでは生の演奏を聴かせてもらいました。

事前に娘と何度も打ち合わせをしました。こういう時インターネットの利便性を痛感します。ガイドブックを購入して、体力と相談しつつ、最終的に小旅行はテネシー州の北隣のケンタッキー州にある『マンモスケイブ』と南隣のルイジアナ州にある『ニューオーリンズ』あとはナッシュビル市内で大学と市場やスーパー マーケットを見学したい、とメールで伝えました。

フライトは成田空港を8月13日14:20でした。三島駅を午前9:30のひかりに乗り品川駅で成田エキスプレスに乗り換えます。これはアメリカ人に教え てもらったのですが、東京駅で地下2階まで延々と降りていくより確かに歩く距離が少なく良かったです。それにしてもフライトの5時間前に家を出るのは『日 常からの脱却』のためには仕方がないのでしょうが、ため息が出ます。 

そして先ずはシカゴまで12時間の長旅です。でもあら不思議(?)到着は同じ日の午前11:50なのです。得した感じですが帰りにしっかりその時間分を請求されるので、全然得はしていないのですが、でも得した気になるのは変ですね。シカ ゴはアメリカ北部の代表的な大都会です。私にとってはアルカポネなど映画の世界です。

ハワイとグアムしか行ったことがなくアメリカ本土へ乗り込むのは65 年振り(?)なんですから、とても緊張しました。娘からも「シカゴのオヘア国際空港はやたらに大きくて乗り換えに十分注意して、それから電光掲示板を始終見ていないと予告なしに国内便がキャンセルになるからね」と警告メールがきていたので、乗り換え便も実は直前に1便遅らせてもらい、何と約4時間待ちとなりました。

預けたバッケージをシカゴで一旦受け取り、ドメスティックの方で預け直し、それからシャトル電車に乗り目的のゲイトに行くことになっていました。荷を預ける時航空券を見せて2番の駅で降りれば良いと聞いていたのですが、降りてすぐ案内役のように立っていた黒人女性に同じことを聞くと、「ノー、 この電車で1番ホームだ。」という。

2012年4月16日月曜日

スティーブ・ジョブズ - Wikipedia


スティーブン・ポール・ジョブズSteven Paul Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家。スティーブ・ウォズニアック、ロン・ウェイン[1]、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界初の成功を収めたアップル社の共同設立者の一人。また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続けた。

ギブンネームをスティーブン、ファミリーネームをジョブスとカタカナ表記することもあるが、アップルジャパン公式サイトでは「スティーブ・ジョブズ」と表記している。

1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅のガレージからスタートしたアップル社はシリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。

1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時存在したあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いのために社内を混乱させたとされ、1985年にアップルから追放された。

アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、ワークステーション「NeXTcube」とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。

1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却することで復帰、1997年には、暫定CEOとなる。その後、ライバルとされていたマイクロソフトとの資本連携に踏み切り、社内のリストラを進めてアップル社の業績を回復させた。

2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。

暫定CEOに就任して以来、基本給与として、年1ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[2](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は居住地の州法により、社会保障を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安いCEO」とも呼ばれた。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。

2011年10月5日、アップルはジョブズが死去したと発表した[3]。別の報道では死因は膵癌に伴う呼吸停止[4]と報道している[5]。56歳没。

2012年2月11日、第54回グラミー賞で、特別功労賞の一つ「トラスティーズ賞」が授与された[6]

[編集] 幼少期

1955年、シリア人の政治学者、アブドゥルファター・ジャンダリとアメリカ人の大学院生ジョアン・シンプソンの間に生まれる。ジョアンの父が、シリア人であるアブドゥルファターとの結婚を認めなかったため[7]、誕生以前から、養子に出すことに決められていた。結果、スティーブはポール・ジョブズ、クラリス・ジョブズ夫婦に引き取られることになった。ジョアン・シンプソンは、ジョブズ夫婦が大学卒でないことを知り、養子縁組を躊躇したが、ジョブズ夫婦が彼を大学に進学させることを約束して、縁組が成立した。ジョブズが、実の母と再会するのは、彼が30歳を過ぎた頃である。

[編集] 青年期

1968年、ジョブズが13歳のとき、あこがれのヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。ビル・ヒューレットはパロアルトに住んでいることを知っており、電話帳で調べてみたところ、パロアルトで、ビル・ヒューレットの名前で掲載されているものはひとつしかなかった。ジョブズが周波数カウンタの部品をくださいと言うと、部品をくれたばかりか、夏休みにアルバイトをしないかと持ちかけられた。もらった仕事は、ヒューレット・パッカードの支社で、周波数カウンタをつくっているところだったという[8]

1971年、高校生になったジョブズは、ヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていた時に、スティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。容姿も性格も正反対の2人であったが、すぐに意気投合した。ある時、ウォズの母親からもらった「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていたブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけるというフリーキング(不正行為)の記事を読んだ2人は、スタンフォード大学の図書館に入り込み、AT&T(ベル社)の技術資料を見つけ出して、自分たちでオリジナルのブルー・ボックスを作り上げた。2人は、この装置で長距離電話をかけまくったという。ウォズは、この装置を作ったことで満足したが、ジョブズは、当時ウォズの通っていたカリフォルニア大学� �ークレー校の寮で、1台100ドルから150ドルで売りさばいていた。装置自体は1台40ドル程度で、大いにもうかったようだが、そのうち銃で脅されるような状態になり、身の危険すら感じたジョブズは、一切の販売を止めてしまう。

1972年、オレゴン州のリード大学(英語版)へ進学。大学時代の彼はヒッピー思想・禅・サイケデリックドラッグに心酔し、裸足で校内を歩き、一時は風呂に入らない時期もあったという。またかなりの音楽ファンであり、ビートルズやグレイトフル・デッドなどを聴きまくっていた。ジョブズは大学に半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり、「両親が一生をかけて貯めた学費を意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた」ために中退してしまう。しかし中退した後もリード大学のキャンパスを放浪し、コーラの空き瓶拾いや心理学科での電子装置修理で日銭を稼ぎながら、哲学やカリグラフィー(西洋書道)など興味のあるクラスだけを聴講するもぐりの学生として過ごし、合計18ヶ月をリード大学に費やした。

[編集] アタリとのかかわり

導師を求めてインドまで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。1974年2月にジョブズは実家に戻り、その日のうちにアタリを訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップであるノーラン・ブッシュネルを引っ張り出す。ブッシュネルに気に入られたジョブズは、40人目の社員として採用され、時給5ドルのテクニシャン(下級エンジニア)として働くこととなった。入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、ビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにも拘らず、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ同僚の大半から「失礼な奴」と認識される。

ジョブズはアルコーンに「インドまでの旅費を援助してくれ」と頼み、ミュンヘンでのゲームの修理を旅費込みで申しつけられ、ドイツ経由でインドへ渡ることで旅費を安く済ませる目処を立たせる。仕事を済ませた後は一度退社し、友人のダン・コトケと共にインドに辿り着くも、すぐに赤痢にかかって苦しむことになった上、放浪の末に想像と余りにもかけ離れたインドの実態に失望[9]。結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、鈴木俊隆を導師としてサンフランシスコで禅を学び、瞑想やスタンフォード大学の授業聴講などをして自分探しを行った後、1975年初頭にアタリに復職する。

復職後の夏、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロックくずし#ブレイクアウト)の回路の部品減らしを命じられ「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ(ブッシュネルはこれを予測していた)、ゲームをしたり勝手に基板を改造していた彼に対してその片手間に作業を頼んだ。ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20~30個も減らしたが、余りに窮屈で難解な設計は、ウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられる。その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局は、またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニ� ��ックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。

2012年4月14日土曜日

環境と経済の素敵な関係: 書籍・雑誌


 昨日の日経新聞朝刊に、「環境会計でコスト削減-比較可能な共通基準必要」という記事が掲載されていました。

 環境会計の分野で注目を浴びているのがマテリアルフローコスト会計(MFCA)です。2006年3月期にMFCAを導入したコンプレッサー製造のサンデンの斉藤好弘環境推進本部長は、「環境会計で効果的にコストを削減できた」と話します。主力の赤城工場(前橋市)の製造コストが2%低下し、CO2排出量も1%減ったそうです。

2012年4月13日金曜日

ヨセミテ国立公園 | ツアー旅行記 | 天体写真の世界


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ヨセミテ国立公園は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のシエラネバダ山脈の中ほどにある国立公園です。 地図を見ると、サンフランシスコのちょうど東側、ロサンゼルスからは北東に位置しています。 とても広大な公園で、3,000平方キロメートル以上の面積があります。

サンフランシスコに海外旅行に行く際に「ヨセミテ公園はマスト・シーだ」と友人に言われたので、急遽旅行プランに 組み入れました。ヨセミテ国立公園は、その美しさから神々の楽園とも呼ばれているそうです。すごいネーミングですね。


ヨセミテ国立公園へのアクセス

ヨセミテ国立公園には、サンフランシスコからバスで訪れました。グレイラインというツアー会社の1泊2日ツアーを利用しました。 本当はネットで宿を予約したかったのですが、ヨセミテ公園の宿にはもう空きがなかったので、こうしたツアーを利用 することになりました。

サンフランシスコからヨセミテ国立公園までは、観光バスで約5時間の道のりです。 写真のような荒野の道を延々と走っていきます。 バスの中では、陽気な運転手がずっと観光地をガイドしてくれていました。私の場合は安いパックツアーで 行ったので、英語でのガイドでした。 初めはなんとなしに聞いていましたが、途中で意識が飛んでしまっていました。

ヨセミテ公園まで5時間もの道のりですから、もちろん途中で2回休憩時間がありました。 サンフランシスコのホテルを出たのが午前5時半ですから、お腹もぺこぺこ。途中で寄ったスーパーで 食べたサンドイッチが美味しかったです。

ヨセミテ国立公園のゲート。これを見たときはやっと着いたーと思いました。

ヨセミテ公園のエントランスゲートをくぐってからも、宿泊するヨセミテロッジまでは距離が案外とありました。 日本の国立公園とはやはりスケールが違いますね。広すぎて、どこからどこまでがヨセミテ公園なのかよくわかりません。


ヨセミテ国立公園のホテル

ホテルが建ち並ぶ場所は、ヨセミテバレーと呼ばれているところです。バスはゲートをくぐってトンネルビューで 小休憩を取った後、このヨセミテバレーまでやってきました。 バスはヨセミテロッジの駐車場に止まりました。

今回の旅行では、ヨセミテ公園内で一番人気のあるこのヨセミテロッジに宿泊することができました。 サンフランシスコからのバスを降りたらそこがホテルのフロントです。ラッキーでした。どうやら ロサンゼルスやラスベガスから来たツアーバスも、このヨセミテロッジの駐車場に止まるようです。 ロッジと言うとなんだか簡素な建物を想像していましたが、客室内は広くて、バスやトイレもちゃんと付いていました。 外観は簡素ですが、室内は都会のホテルと変わらない印象でした。

ヨセミテ国立公園に到着。周りに緑一杯の駐車場でした。

私の泊まったヨセミテロッジの室内は、日本で読んだヨセミテのガイドブックと少し違っていたので、室内設備につい て少し触れておきます。

ヨセミテロッジには、バストイレが付いている高級タイプの部屋と、バストイレが共用の簡素な部屋があります。 今回私が利用したのは、バストイレ付きの方です。 この部屋には、真ん中にセミダブルサイズのベットが二つでんと置いてあります。また室内には、 テレビに冷蔵庫、それにヒーターがありました。クローゼットもあります。そして横の部屋にバスとトイレが あります。もちろんタオル類も置かれていました。サンフランシスコで泊まったシティホテルよりも、広くてビッ クリしました。

ヨセミテロッジの室内。思ったより広くてビックリ。小さなお庭も付いています。