<癒されないいやし、道徳的腐敗、不倫、偽り等々、ペンテコステ運動の驚くべき歴史>
「ヨハネの黙示録 8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」
以下は、20世紀初頭からのペンテコステ運動の歴史を記したものです。
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「後の雨運動」は、その教義が異端的、誇張、そして虚偽に性格ずけられている。
このようなことばが、人には受け入れがたいものであることは、私にはわかっているが、しかし、この運動に関して書かれた文書は否定できない。
紀元一世紀に起きたヨハネ、パウロら、使徒達により起された奇跡は今日のクリスチャンにより行われているものとは、異なる。
使徒行伝時代のしるしが現在、回復されると主張され、それが使徒のしるしだといわれているが、しかしこれを受ける者は実際には、オカルト的な現象、たとえば「聖霊により倒される事」、霊で酔うこと及び魔術的(彼等は、知識のことばと称する)なことがらを受け入れなければならなくなる、さもなければ、彼等はしるしを過大視し、前もってつくりあげるようにさせられる。
これは、まさに最近の「後の雨運動」、笑いのリバイバルの中で見てきたことである。20世紀の後の雨運動は、文字どおり、霊的混乱、誤り、偽りにより動かされている。
ある人々は、我々がこの運動全体を描くといいながら、例外的なことを全体といいかえていると抗議するかもしれない。
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しかし、覚えていただきたいことは、以下に書かれた人々は、ペンテコステ運動の中で、(皆に)認められている指導者であるということである。彼等は例外的な人々ではない。
彼等は権威ある「ペンテコステカリスマ運動の辞典」及び多くの他のペンテコステの歴史に掲載されている人々である。
さらに、イエスキリストは我々に「教師をその実によって判断する」ようマタイ7:15-18で語っている。聖霊から来た働きであると称していても、しかし実際は、偽りの教え、道徳的におかしい、きちがいざためいたものは拒否されるべきである。私はペンテコステ運動の中に多くの敬虔なクリスチャンがいることを認めるものである。私自身このような人から、キリストへ導かれている。
シャーロッテのジョセフチャンバー博士のように笑いのリバイバルの狂気に対して、強い反対の態度をとる敬虔な人々もいる。
私はチャンバー博士のペンテコステ神学に関しては受け入れがたいが、しかし、彼に対して大きな
尊敬を抱いている。彼の教会は、彼等自身が属する教団の非聖書的でないことがらに反対したため、300万ドルの資産を消失した。神の教会とその教団は、裁判により、彼等の資産を奪ったのである。
私は真理のため彼等が払ったたそのような態度を尊敬するが、私は後の雨ペンテコステ教義と継続するしるしに関する誤った教理が以下の調査で述べるような狂気に陥る根本であると信じる。
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全てのペンテコステが2枚舌、及び極端に走っているわけではない、しかし、非聖書的なペンテコステ教義がそのようなものに加担している。
私はこれを心から信じている、私は、昔からのペンテコステ主義の多くの面に対して心情的にひかれるものを持ってはいるものではあるが。私は彼等の神に対しての熱心に関して主をほめる。すなわち、真の新約のキリスト教を見たいとの願い、明確な礼拝、彼等の神への信仰、全ての神のことばを真剣に受け止めたいとの彼等の願い、彼等の奇跡-神の働かれる力-に対する確信、この世からの分離に対する熱心に対して。しかし、私は、たとえ昔流のペンテコステ派であっても、働きをともにはできない、何故なら、彼らは非聖書的であるばかりか、愚かにも終末の背教となる、世界統一教会(エキュメニズム)に至る教義の基礎を築いているからである。
以下にペンテコステの歴史を記していく。
*ジョンアレクサンダードウイ
初期のペンテコステの歴史において、もっとも影響のあるセンターの一つは、ジョンアレクサンダードウイ(1847-1907)により建てられた「シオンの町」である。
ドウイ自身は、異言と聖霊のバプテスマとの教理を受け入れていないが、彼は、「アメリカのいやしリバイバルの父」と呼ばれている。(ハレル著「全ては可能」13ページ)
彼の後の日の奇跡教理は、ペンテコステ主義の道を開き、ペンテコステ教理は、彼が死ぬ以前に彼の組織を速やかに設立した。 多くの影響力のあるペンテコステ指導者が、彼の運動から輩出された。
彼の雑誌、「いやしの葉」は、世界中に流布し、広大な影響を与えた。ドウイは、いやしはあがないの中で約束されていると主張し、信仰によるいやしを求める人々は、全ての医療的手段を排除すべきであると教えた。
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彼は薬剤師や外科医は、悪魔の手先であるとみなした。彼の娘が偶発的な事故で、アルコールランプによりひどく火傷した時、彼の側近の一人が彼女の痛みをやわらげようとして、ワセリンを塗ろうとした時、それを止めた。彼は彼女に何らの医療を施すことをも拒否し、彼女はそのまま死亡した。他にも多くの彼の信仰治癒ホームに来た人々が、何らの医療も受けず、その病の中で死んでいる。1895年、彼は殺人と放置の罪によりシカゴ市により起訴され、有罪となった。しかし、高等裁判所は、罪状は、構成されないと規定した。彼は彼に従う者は、全ての豚製品の使用を諦めるよう要求した。
彼はシオンの町を鉄の腕をもって支配したが、彼は財政に関する無責任さ及び、個人的ぜいたくで、記憶されている。1901年、彼は、自分はエリヤ、回復者であると主張し、1904年、彼は彼の追随者達に
使徒的キリスト教の全面回復を予期していると語り、彼が回復された終末の教会の最初の使徒であると神から命令されていることを明らかにした。 (ペンテコステカリスマ運動の辞書249ページ)彼の人生の晩年の数年間、彼は、性的な間違いから告訴され、彼はびっこの歩行をするようになり、シオンの町は、破産を宣告された。彼の死の6ヶ月前、彼は完全な失望のうちに横たわっていた。
ドウイの異端的な教理、非聖書的なミニストリーにも関わらず、彼はチャールスパーム、及び彼の
同じように非聖書的なペンテコステ主義に対して、道を備えることになった。
ペンテコステカリスマ運動の辞書は、もっとも有名なペンテコステ伝道者がシオンの町から輩出したことを記している。(368ページ)そしてシオンにおける多くのパームの追随者は、1914年のアッセンブリーズオブゴッドの形成に参加した。
実際に、当初の8人のAOG(
アッセンブリーズオブゴッド)委員のうち、3人は、シオンの町からのメンバーであった。(370ページ)
シオンの町から起き、ペンテコステ運動に影響を与えた人物は、F.F.ボスワース、ジョンレーク、J.ローズウエル フラワー、ダニエルオッパーマン、サイラス フォックラー、フレッド ボグラー、マリー バウゲスブラウン、ウィリアム パイパー、F.A.グレーブス、ラミュエルホール、マーサ ロビンソン、ゴードン リンゼイ、レイモンド リッキーである。「いやしの声」の編集者であり、影響力あるAOG働き人のゴードン リンゼイは、ドウイの自伝を書き、彼の影響を「力ある働きをなした信仰の人々の将軍」であると、ペンテコステ説教者の世代を参照しつつ誉めた。
*マリア・ベウラ・ウッドワースーエサー(MARIA BEULAH WOODWORTH-ETTER)
信仰治癒の伝道者マリア・ベウラ・ウッドワースーエサー (1844-1924) は初期のペンテコステ運動において、広大な影響を与えた。ペンテコステカリスマ運動の辞書によれば、彼女は、「ペンテコステ的メッセージを伝える為の記念碑的存在である」そして、「大部分の初期のペンテコステ派は、ウッドワースエサーを神がこの運動に送った者とみなし、彼女を批判なしで受け入れた」と記してある。
彼女がテキサスにおいてF.F.ボスワースのために5ヶ月にわたる神癒クルセードを行った時に、「ダラスに集まった人々はそのまま、影響力のあるペンテコステ働き人のリストそのものであり、初期ペンテコステの働き人の顔見せのようであった」(同上365ページ)彼女の集会は、霊により倒されること、預言、トランス状態になること、一般的な大混乱により特色ずけられていた。
彼女は度々、集会中にトランス状態になり、礼拝が続いている間、1時間以上も両手を挙げたまま、彫像のように立ちつくしていた。(ペンテコステの辞書901ページ)彼女はこのように、「夢見ごごち(トランス)の伝道者」そして「ブードーの女預言者」と称された。彼女は、サンフランシスコ湾地域が地震と津波により1890年に破壊されると誤った預言をした。彼女はモルモン教からの招きを受け入れ、ネブラスカにおいて1920年に説教した。
*チャールス・パーム(CHARLES PARHAM)
我々はこのレポートの始めにペンテコステ運動は、その遺産をカンサス州 トペカにあるチャールス・パームのベテル聖書学校に負っている事を述べた。ここにおいて、アグネス・オズマンが1901年に按手された時、異言をかたり始めたのである。
話では(確かに確証されたわけではないが)その時、オズマンは英語を話せなくなり、中国語で3日間話した、そして二日目に、ボヘミア語で話し始めた。間もなく、学校の他のほとんどの学生は、「異言で」話し、賛美した。パームの主張では、言語専門家や他の言語学の教育を受けた人々により異言は言語であると確認されたとのことである。
しかし、これはこの運動の外部の人々により確認されたわけではない。 その日の新聞の記者は、この現象をただ「わけのわからないおしゃべり」である
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