●一橋大学 2010
第1問
次の文章を読んで、問いに答えなさい。
「政治的主権者は、もしキリスト教徒であれば、かれ自身の領土における教会の首長である。キリスト教徒たる主権者たちにおける、政治的権利と教会的権利との、この統合から、政治と宗教との双方における人びとの外的行為を統治するために人間にあたえられうるかぎりの、あらゆる様式の権力を、かれらの臣民たちに対してかれらがもっているということは、明白である。そして、かれらは、コモン-ウェルスとして、および教会としての、かれら自身の臣民を統治するために、かれらが最適と判断するであろうような諸法をつくっていいのであって、国家と教会とは、同一の人びとなのである。」(ホッブズ『リヴァイアサン』水田洋訳より)
問い 17世紀に執筆されたこの文章は、当時のヨーロッパ世界になお残って� ��た政治・社会状況を前提に書かれている。中世のヨーロッパ世界では、11世紀後半から13世紀初頭にかけて、皇帝(世俗権力)と教皇(教会権力)との関係が大きな政治問題として顕在化していた。皇帝権と教皇権とのあいだで展開された一連の政治闘争は、1122年の協約によって一応の結論に達したとされる。この争いが現実の政治・社会生活に対してもった意義とは、どのようなものだったのだろうか。1122年に締結された協約の意義にも言及しながら論じなさい。(400字以内)
どのくらいのスピード違反の切符は、人の記録に残りません
第2問
次の文章を読んで、問いに答えなさい。
2008年アメリカ大統領選における民主党候補者争いは、ヒラリー・クリントンとバラク・オバマによる史上まれに見る接戦となった。いずれも本選で当選すれば、アメリカ政治史上、初の女性大統領、黒人大統領の誕生となることから大きな注目を集めることとなった。しかし、歴史をさかのぼれば、そもそも、アメリカ合衆国の建国時、女性にも黒人にも、大統領に立候補する被選挙権はもちろんのこと、政治に一票を投じる参政権すら付与されていなかった。
アメリカでは、19世紀前半のジャクソン大統領の時代に男子普通選挙制が採用されたが、黒人(奴隷)や女性は蚊帳の外に置かれた。南北の激しい内戦をへて、奴隷制が解体されたのちの再建の時代になって、憲法修正15条により「合衆国市民の投票権は、人種、肌の色、または過去における労役の状態を理由にして、合衆国または州によって拒否または制限されることはない」(1870年)と定められ、黒人男子の政治参加への道が開かれるかにみえた。しかし、白人による激しい抵抗にあい投票権を剥奪され、実質的な政治参加は、約百年後に成立した1965年の投票権法の成立を待たなければならなかった。
一方の女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった。
問1 南北戦争後の1869年には、アメリカの政治・経済の統合に大きな役割を果たす交通網が完成する。これは何か。また、海外においても同年、ヨーロッパとアジアの距離を短縮する交通史上の大きな変化が起こるが、それは何か。(50字以内)
問2 アメリカ合衆国以外の各国においても、この1920年前後に、女性参政権が実現した国々が多い。なぜこの時期に多くの国々で女性参政権が実現したのか、その歴史的背景を説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(350字以内)
クリミア戦争 総力戦 ウィルソン ロシア革命 国民
第3問
次の文章はある国際会議の最終コミュニケの冒頭部分である。この文章を読んで、問いに答えなさい。
アジア・アフリカ会議はビルマ、セイロン、インド、(A、 )及びパキスタンの各国首相の招請のもとに召集され、(B. )年4月18日から24日まで(C. )で会合した。主催諸国のほか次の24カ国が会議に参加した。
それは古いアイルランドの市民権を持っていることを意味するもの
1.アフガニスタン、2.カンボジア、3.中華人民共和国、4.エジプト、
5.エチオピア、6.ゴールド・コースト、7.イラン、8.イラク、
9.日本、10.ヨルダン、11.ラオス、12.レバノン、
13.リベリア、14.リビア、15.ネパール、16.フィリピン、
17.サウジアラビア、18.スーダン、19.シリア、20.タイ、
21トルコ、22.ベトナム民主共和国、23.ベトナム国、24.イエメン
アジア・アフリ力会議はアジア・アフリカ諸国に共通の利害と関心のある問題を検討し、各国国民が一層十分な経済的、文化的及び政治的協力を達成しうるための方法及び手段を討議した。
(国名は原文に基づく。また、問題作成のため文章の一部改変を行った。)
問1 空欄(A. )、(B. )、(C. )に入る適当な語句を記しなさい。
なお、Aには国名、Bには西暦年、Cには都市名が入る。次に、このコミュニケのなかで宣言された内容とはどのようなものであったかを説明しなさい。(100字以内)
問2 この会議に中華人民共和国を代表して参加した人物は、1936年にその後の中国国民党と中国共産党との関係に大きな影響を与えた出来事のなかで重要な役割を果たした。その人物とは誰であり、その出来事とはどのようなことであったかを説明しなさい。(150字以内)
問3 この会議にインドを代表して参加した人物は、英国の植民地支配下にあったインドを独立に導いた民族主義的政治団体の指導者の一人であった。この人物および政治団体の名前を記し、次に、この団体の政治運動の展開過程を説明しなさい。(150字以内)
ユーコン準州の最初の国は何ですか?
2010年一橋コメント
第1問
予備校の解答を吟味する前に課題を確認しておきます。
課題は分かりにくいものでした。
課題文は「この争いが現実の政治・社会生活に対してもった意義とは、どのようなものだったのだろうか。1122年に締結された協約の意義にも言及しながら論じなさい。」です。三つの課題があります。「争い(=叙任権闘争)」のもった意義が二つ(政治と社会生活)、それに追加的に書いてある「協約の意義」そのものです。三つも意義を書くのは過去にない。たぶんこれは言葉のまずさとわたしは見ています。初めの2つは意義より「影響」で良かったはずで、「政治・社会生活に対してもった影響」で良かったと。最後の意義はこのままで良いと。ただ出題者としては意義という言葉をつかうと長い時間をかけた影響になるので強調したかったのだと推測します。
初めに「争い」の決着としての「協約の意義」を書き、その上で政治・社会生活の長い影響を書く、という順でいくと整理した解答になります。単純化すれば、争いの前と後です。
この問題の取り方で分かるように、「争い」そのものは書かなくていいことです。問題文に「皇帝(世俗権力)と教皇(教会権力)との関係が大きな政治問題として顕在化していた。皇帝権と教皇権とのあいだで展開された一連の政治闘争」と概略を書いてしまっています。叙任権闘争がどういうものだったか書け、という問題なら2002年の問題「ウルバヌス2世の前からはじめられ、1122年に一応の妥協をみた「熾烈(しれつ)な戦い」の名称を記し、その過程について説明しなさい」がありました。
もちろん闘争のもつ意義ですから、ある程度は書かざるをえませんが、それより闘争の前だとか後だとかに視点・比重をかけた解答でなくてはならないことです。
叙任権闘争・協約の意義というのも過去問にありました。1987年の「「叙任権闘争」とよばれ、教会と国家の関係に根本的な転換をもたらすものであった。この争乱の概要を記し、また、それがいかなる意味で、ヨーロッパ史上、宗教改革、フランス大革命に匹敵するような大変革であったと言いうるのかを説明せよ」という問題です。ここで書けた意義(大変革)をそのまま使えばいでしょう。
政治的意義は、争いの「前」にあったオットー1世の帝国教会政策に破綻が起きます。ヨーロッパの最高権威はローマ皇帝であるという押し付け(叙任権)を排除できました。ここに楕円構造という皇帝と教皇の二元体制ができます。協約の段階では、それまで皇帝より低かった教皇権が高まり拮抗した状態になります。
「後」としては、二元状況を越えて皇帝権に勝るようになったのがインノケンティウス3世のときです。英王ジョンを破門し、仏王フィリップ2世を破門し、第四回十字軍のラテン帝国を破門しました。それらを皆、教皇に国土を寄進し、家臣として主人たる教皇から改めて封土してもらう、という中世独自の偽装封建関係ができて初めて破門が解かれました。
インノケンティウス3世まで待たなくても、叙任権闘争の途中から、闘争の一環として十字軍・レコンキスタ・東方植民が教皇によって奨励されました。十字軍が叙任権闘争の一環であったことは過去問2002年の導入文と課題文にありました(こちら→)。
もちろん東方の帝国ビザンツの皇帝教皇主義とはちがい西欧ではそれは不可能であり、政教分離の原則ができたことになります。
教皇領といわれる教会国家はインノケンティウス3世のときに最大版図を形成します。海軍・陸軍をもつ、れっきとした政治権力でした。これはラヴェンナの寄進から始まり、周辺の領主たちが寄進してきて最大となったのですが、教皇権の高まりなしには考えられない現象でした。
社会的生活の意義は、何より「社会的」が曖昧なことばであるため、何を書いたらいいのか判らない、というのが受験生一般の反応です。拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)のコラム(ここだけの話)に「社会ってなに?」という詳しい説明があります(p.53)。かんたんに言えば政治以外のすべてです。民族・身分・経済・教育・宗教・共同体など。
民族なら十字軍から推測できるように、反ムスリム、反ユダヤ人感情が出てきて、じっさいインノケンティウス3世も第四回ラテラノ公会議を召集して(1215)ユダヤ人がそれと判るような、尖がった帽子やマント、頭巾などを着て、ユダヤの印としての黄色のリングをつけることを義務付けました。山川用語集にも「ユダヤ人迫害」のところで、「一般的に十字軍運動以降、激化した」と書いています。
身分ということでいえば、聖職者が第一に尊ばれる身分となり、都市にも村にも教会が建てられ、ギルド毎の一員として、荘園おける領主の農奴として信徒の生活が営まれるのも、この教皇権の高まりとともに確立しました。
経済面では、教会に対する十分の一税支払があり、聖職者である領主が荘園の経営者でもありました。西欧全土の3分の1が教会領でした。シトー派を中心に東方植民をおこない開拓の奨励をしたのも教会でした。森を切り開き、道路・橋の建設をし、ワインを醸造したり、三圃制の拡大をしたのも教会・修道院でした。旅行者を保護したり、貧者の生活援助をしたのもそうでした。
教育という点では、ボローニャ大学の設立の一因は叙任権闘争でした。この闘争の中で政治権力の側にはローマ法があるのに教会の権限を定めた法がないため、教会法をつくるべく、ローマ法大全の古いのが見つかったボローニャで主に学僧たちが集まってできたのが大学でした。教授も修道僧たちでした。ドミニコ派のトマス=アクィナスはパリ大学神学教授です。
宗教といえば、巡礼熱がさかんでした。十字軍も巡礼の一つとさえ見られました。「イェルサレム巡礼」「聖墓もうで」「道行き」とも言われました。特に今も巡礼が盛んなスペイン西北サンティアゴ=デ=コンポステラはセンター試験にも出ていました(01,07)。
(東進)出典
1122年のウオルムス協約で「一応の結論に達した」政治闘争は叙任権闘争と呼ばれる。ウォルムス協約では教皇も皇帝もともにカトリック世界における普遍的権威という位置づけが確認された。一般的に政教分離の妥協といわれるものである。ところが実態は教皇インノケンティウス3世が「教皇権は太陽、皇帝権は月」といったように教皇権が皇帝権を上回っていた。それは叙任権闘争の途中で皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に屈服したカノッサの屈辱や、教皇ウルバヌス2世によって十字軍が提唱されたように教皇権が伸長していたからである。そのため現実の政治・社会生活において宗教の影響は深まる
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